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小説「ノーベル賞を取りなさい」第6話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 柏田の秘書になったのは、オルソン亜理紗という名前の女性だった。スウェーデン人の父親と日本人の母親の間に生まれた彼女は、ストックホルムの高校から大隈大の係属校である大隈実業学校高等部に留学し、大隈大文学部日本文学科を経て大学の職員として五年前の四月に就職した。それが総長の目に留まったのである。
 まだ柏田は秘書を用意してほしいと伝えたわけではなかったが、日本語、英語、それになんと言ってもスウェーデン語を自由自在に操る彼女の存在は、ノーベル賞受賞のための研究執筆の大きな支えになるものと判断されたのだろう。
「柏田先生、これからどうぞよろしくお願いいたします」
 流暢な日本語で挨拶すると、研究室に運びこまれた秘書用のデスクに荷物を収納した亜理紗は、パソコンや電話機などの設定を終えたのち、さっそくコーヒーを淹れてくれた。
 茶色の髪と瞳をもつ美しい顔立ちは日本人女性のようにも見えるが、彼女の身長は一七五センチほどあった。ソファーに向きあって座り、コーヒーを飲みながら二人は雑談をはじめた。
「やっぱり背が高いんだね。俺とそんなに変わらない。スポーツはなにをやっていたの?」
 柏田の問いに、亜理紗は答えた。
「空手です。ストックホルムで会社経営のかたわら道場をやっている父に、子どもの頃から教わりました。日本に来てからも、ずっと続けています」
「強いんだろうなあ」
「ご想像におまかせします」
「日本文学科に進んだのは、やはりお母さんの影響?」
「はい。十五、六の頃から、母が薦めてくれた夏目漱石や森鴎外や芥川龍之介や太宰治の本を日本語で読んでいました。それで日本の文化や歴史に興味をもつようになり、留学を決めたんです。大学に入ってからは古典文学に夢中になりました。いちばんの愛読書は、源氏物語です。日本語は、とても美しい言葉だと思います」
「ふうん」
 コーヒーを飲みほして、柏田が言った。
「麗しの文学部と違って、ここは色気もなーんにもない政経学部の研究室だからね。亜理紗ちゃん、退屈しちゃうかもしれないよ」
 すると彼女は
「そんなことありませんよ。先生とてもハンサムですし、アライグマの尻尾がすごくチャーミング。私のデスク、先生の後ろですから仕事のないときは好きなだけ尻尾を眺めていられます」
亜理紗の言葉に気を良くした柏田は
「うれしいこと言ってくれるねー。お、そろそろ昼時だ。ランチに行こうか。ごちそうするよ」
 と亜理紗に声をかけ
「はい! お供します!」
 彼女も声を弾ませた。
 一号館ビルを出て、並んで歩いていく途中、柏田が言った。
「あのう、俺、この大学に来てまだ日が浅いもんだから、飲食店事情に疎いんだよね。どこか、いい店、知ってる?」
「じゃあ、それなら」
 と亜理紗はキャンパスの南門のほうに目をやり
「門を出て五分くらいのところに『シャンソン亭』というフレンチのお店があるんです。本格料理なのにリーズナブルで、学生や教職員たちに人気なんですよ」
 と話した。
「では、そこへ」
 と柏田。
 二人が到着し、ドアを開けると、店内にはにぎやかなシャンソンが流れていた。席に着くと『本日のランチ』として三種類のセットメニューがテーブルの上に置かれ、それらを比較検討したのち
「先生はどれになさいます? 私はこれ」
 と、亜理紗が「前菜: 鶏レバーのパテ ポルト酒風味 と 主菜: 牛バラ肉の煮込み クスクス添え と バゲット」を指さしたので
「お、気があうねー。俺もそれにしようと思っていたんだ」
 柏田はそう答え、店員を呼んで注文した。
 運ばれてきた料理をさっそく食べはじめると、なかなか美味い。パテにはハチミツやレーズンの甘味がアクセントとして効いており、時間をかけて煮こんだのであろう牛バラ肉はとろりと柔らかく旨味が際立っている。
「亜理紗ちゃん、『美味しい』をスウェーデン語でなんて言うの?」
 柏田の問いに
「ゴッ」
 と彼女が発声すると
「ゴッなランチで仕事もはかどる午後ッ」
 いきなり柏田がダジャレを飛ばした。口に手をあて、大笑いする亜理紗。
 そのとき店のドアが開いて、数人の女子学生たちが入ってきた。奥のテーブル席についたそのうちの一人が、柏田と亜理紗の楽しそうな食事風景を目撃すると、たちまち嫉妬の表情になった。
 由香だった。

            

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