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将棋小説「三と三」・第2話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 昭和九年六月。梅雨入りにはまだ間のある、大阪・北浜の夕刻。二人の男が、洋食店のテーブルに向かい合って座っていた。
 似たような六十年輩どうしだが、姿形は正反対に異なっている。一方は六尺近くはあろうかという大柄で、焦茶色の上着とズボンに身をつつみ、縦縞のシャツの襟元を深緑のネクタイで締めた洋装。もう一方は五尺そこそこの小作りで、こちらは黒紋付の羽織に濃鼠の袴という和服のいでたち。向き合う顔の位置は頭一つぶんも違っているが、頭そのものに限っていえば小柄な男のほうがずっと大きかった。
「ここは近頃評判のレストランでしてな。いちど先生をお誘いしてみたかったんだす」
 洋服の男が野太い声で言うと、
「ふうん、評判のレストランドでっか」
 カン高い声で、和服の男が応じた。でかい頭はゲンノウで叩いてならしたみたいに扁平で、キンキン声はその平らな頂から発せられているかのようだった。外来語は苦手らしい。
 ボーイが注文を取りにくると、
「牛肉の入ってる料理はありまっか?」
 キンキン声が訊いた。
「へえ。いろいろございます。メニューをご覧になってはいかがでしょう」
 ボーイの返答に、
「わて、字が読めまへんのや。メニューはええから、牛肉のいっぱい入ってる料理を出しとくなはれ」
 風変わりな注文の仕方に戸惑いながらも、
「ビフテキ定食などいかがでっしゃろ?」
 ボーイがそう提案すると、
「ビフテキいうたら、ビーフのテキだんな? それには牛肉がいっぱい入ってるに違いないな?」
「まるごと牛肉だす」
 和服の男は、ようやく笑顔になった。
 その笑みに、洋服の男も心が和むのだった。東京の関根金次郎一派を次々と撃破して大いに心胆を寒からしめ、将棋十三世名人の座まであと一歩に迫った棋神・阪田三吉も、六年前、愛妻のコユウを病気で亡くしてからというもの、往年の覇気は失せ、吹田の自宅にこもる日が多くなっていた。素人棋客ではあるが阪田の門下生として、また広告取次会社を営む実業家の立場から彼を後援する一人として、目の前にいる棋界の風雲児に、かつての輝きを少しでも取り戻してほしい。外出を渋る阪田を口説いて、谷ヶ崎芳太郎が会食の機会を設けたのも、そのためだった。
 運ばれてきたビフテキを、阪田はフォークとナイフを器用に使って食べている。将棋の駒の字と自分の名前のほかに文字が読めないのは、子供の頃、学校の勉強が嫌いで、ろくに通わなかったからに過ぎない。棋道で名を成してからの彼は、東京の愛棋家である柳澤保惠伯爵とも親交を結ぶなど、一流の文化人なのだ。また抜群の記憶力を活かした耳学問による、たいへんな教養人でもある。
 カツレツを肴にハイボールを飲みながら、谷ヶ崎はふと思う。自分の経営する広告取次会社には、ビールやウイスキーやワインなどの洋酒を製造する顧客企業もある。その広告に阪田を起用できたら面白いのにと。「これぞ妙手の妙酒なり」などと、珍妙な宣伝文句が浮かんだりもする。だが、実際に水を向けたことはない。なぜなら「わては酒は飲みまへん。嘘の広告はあきまへん」と、ピシャリと断られることが目に見えているからだ。そんな実直な阪田の性格が谷ヶ崎には好ましくもあったし、大酒飲みの自分とは正反対に酒も煙草もやらず、好物と言えば牛肉料理くらいの彼の真面目な生活ぶりが、およそ勝負師らしくなく微笑ましかった。
「戦争はどうなりますやろ?」
 旨そうにビフテキを食べていた阪田が、突如として皿から顔を上げ、谷ヶ崎の目を見つめて言った。
「え……?」
「わてが関根はんと初めて指した無段の年に、日清戦争。四段の格で指してた頃に、日露戦争。七段で指してたら、欧州大戦。それから八段に昇り、関西名人を名乗っておったら、三年前に満州事変、一昨年は上海事変や。日本がよその国と戦争をしてる中で、わては将棋という戦争をしてきた。戦の中の戦やな。幸いなことに日本が勝ち続けてるのと一緒になって、わても段位が上がってきたけど、もうあきまへんで。わてにはこれ以上、上の位がおまへん。せやから、日本もこれ以上、きっと上の位がおまへんのや。戦争はもう、終わりにしたほうがええのと違いまっか?」
 突然の話に、谷ヶ崎は少なからず驚いた。阪田とはかれこれ二十年以上の付き合いになるが、彼の口から日本国の戦争に異を唱える発言を聞いたのは、これが初めてだったからだ。何気ない世間話のひとつかとも思ったが、テーブルに向き合って自分を見つめる阪田の金壺眼は真剣な光を宿している。
 確かに、戦争続きの時代ではある。満州を占領した日本軍は清朝最後の皇帝である溥儀を担いで満州国の建国を宣言させたが、国際連盟が派遣した調査団によって日本の傀儡国家であると見なされ、去年の三月に日本は国連を脱退した。中国との全面的な軍事衝突はいつ勃発しても不思議ではないし、他の国々を巻きこんで大きな戦火が燃え広がるのも起こりえないことではないだろう。
 そうした軍事の動きが、経済問題と密接に結びついていることを、財界人の一人である谷ヶ崎はよく理解している。欧州大戦の最中は輸出が急伸する大戦景気に沸いた日本経済も、戦後は輸入超過に転じて不況の波に呑まれ、関東大震災による大打撃、さらには米国に端を発した世界恐慌の嵐に見舞われて危機的な状況に陥った。これを脱するために、日本は大陸での軍事作戦を拡大していったのだ。軍事費の増大、インフレ政策、金の輸出禁止による円安がもたらした輸出の急増によって、今では景気も恐慌前の経済水準にまで回復している。
自分のような広告取次業者にとっては、景気こそが命だ。不景気になると、どこの会社も真っ先に広告費を削る。今こうしてカツレツにハイボールを楽しんでいられるのも、曲がりなりにも日本の経済が好調に推移しているおかげではないか。軍部や右翼を擁護するつもりはないが、不況や恐慌はもうコリゴリだ。
それにしても、勝負の世界に生きる阪田から、戦争はもう終わりにしたほうがいいのではないでしょうか、と意表の一手に来られ、何と応じれば良いのだろう。その通りです、平和こそ我々人類のあるべき未来永劫の常態です、などと答えるような理想主義者の柄では自分はないし、そんなことはありません、他国の領土と利益を奪えば奪うほど、我らが大日本帝国の栄光、国民の幸福はいや増しに増していくのです、などと答えるような悪鬼でもない。そろそろ、奥の手を出すとするか。そう思うと、谷ヶ崎の心はウキウキしてきた。今宵の会食は、これを伝えるためでもあったのだから。
「先生、戦争がどうなるかは分かりまへんが、将棋の世界に頼もしい新兵が一名、入営してきたことだけは明らかだす」
「新兵?」
 谷ヶ崎の言葉に、阪田の金壺眼が、いっそう丸くなった。
「広島は双三郡三良坂町出身の十六歳。姓は升田、名は幸三。この二月に初段になったばかりのホヤホヤだす」
「ますだ……こうぞう……」
「家出少年ですねん」
「家出? そらまた何でだす?」
「棋士になるのを親が猛反対。そこで実力行使に出ましてな」
「ほっほーっ」
 金壺眼がだんだんと輝き、キンキン声が高鳴ってきた。
「そ、それで、どないなりましたんや? 家出してからは」
 椅子から立ち上がるように、阪田が身を乗り出してきた。よしよし、計画通りだ。阪田は面白い話を聞くのが大好きなのだ。新聞連載小説の「水戸黄門」がとくにお気に入りで、家族や後援者に読んでもらい、もっと助さん・格さんの登場機会を増やすよう作者に電報を打ってくれと頼んだことがあるほどだ。新人棋士の家出話であれば、なおのこと彼の興味をそそるだろう。ハイボールをひと飲みし、喉を潤してから谷ヶ崎は語り始めた。
「今を去ること二年と四か月の真冬、十三歳の升田幸三少年は深夜の山道を歩き始めた。母の愛用の三尺の竹の物差し、その裏側に、日本一の将棋指しになってみせると書き残し。懐には無一文、寒風の吹き荒ぶ中、目指すは十三里彼方の広島市。そこで働き、旅費を稼いで、さらに目指すは大阪、阪田三吉名人邸」
「あ、そこ、そこ」
「ん……?」
「そこんとこ、もういちどやっとくなはれ」
「……さらに目指すは大阪、阪田三吉名人邸」
「ええなあ」
「ええでっしゃろ」
「続けとくなはれ」
「……道中、雑貨屋の主を相手に勝負将棋を三番棒に勝ち、下駄と饅頭二個などせしめながら。さてさて広島に着いたはいいが、これといった職もなく、やむなく道端の懸賞詰将棋荒らし。稼いだ小銭で飯を食い、寝るのは木賃宿の煎餅蒲団、シラミ付き」
「痒かったやろなあ」
「痒うおましたですやろなあ」
「続けとくなはれ」
「……さてさて、そうするうちにも仕事の口が見つかった。天ぷら屋の皿洗いに出前。こき使われたが、出前の途中に縁台将棋を見物するという楽しみもあった。だが、勝負がつくまで立って見てるから、いつまで待たせる、こんな冷たい天ぷら食わすのかと客の苦情が殺到。せっかくの職も失うハメに」
「先に届けてから、帰りに将棋見物したらええのに」
「そうでんなあ」
「せやけど、そこがまた純真でええのや。続けとくなはれ」
「……さてさて、次なる勤め先はクリーニング屋。店の主人と女房には子供がおらず、天ぷら屋の轍は踏まぬと仕事に精出す幸三少年を我が子のように可愛がってくれた。家出から二か月ほどが経ったある日のこと、店の近くに将棋会所が新規開所し、その記念の大会に出場した幸三少年は見事に三等賞。審判長を務めた大深孫一五段に棋才を高く評価され、後日、缶入りの岩おこしを手土産に訪ねて専門棋士になりたいと訴え、試験将棋の飛車角落ちを数局指したところ、一番勝ち越して合格。さてさて大深五段がくれた入門紹介状の封書、その宛名は」
「宛名は!」
「木見金治郎八段」
「なんだす、それは」
 それまで身を乗り出して話に聞き入っていた阪田が、不貞腐れた顔になり、椅子に腰を下ろして言った。
「目指すは大阪、阪田三吉名人邸やおまへんのでっか」
 ここで阪田が気を悪くするであろうことは、谷ヶ崎には織りこみ済みだった。同じ大阪在住の棋士であっても、木見は東京方の関根十三世名人の派閥に属しており、阪田との交流はほとんどない。将棋が弱いくせに関根に取り入って八段を免許された木見のことを、阪田は見下し、嫌っていた。
「ほんまに関根はんという人は、石鹸会社の社長みたいなもんだっせ。将棋指しの段ばかりどんどん増やすもんやから、石鹸の泡みたいに、吹いたら飛んでまう八段がどんどんできるのや。木見はんのように弱い八段が、どんどん増えていくのや」
 阪田お得意のせりふが出た。大正の末期に、関根名人が八段を濫造した件を皮肉ったこの言葉が飛び出すであろうこともまた、想定のうちだ。彼の不服を聞き終えたのち、谷ヶ崎はおもむろに口を開いた。
「木見八段の棋力が阪田先生のような名人に遠く及ばないことは、升田少年も先刻承知でしてな。田舎におった頃、木見はんの書いた棋書を何冊か読んでいたし、新聞に載った木見はんの将棋も何局か見てたそうだす。ところが、木見はんの勝った将棋は一局も目にしたことがないと。受けてばかりの気合の悪い将棋で、いつも攻め潰されてばかりやと。木見を、キミではなくモクミと読むのだと思いこんでいて、負けてばかりのモクミ八段の印象しかあらしまへんのだったそうだす」
「ふうん」
「せっかく家出までしてきたのに、憧れの棋神・阪田三吉名人ではなく、どうして負けてばかりのモクミ八段に自分を紹介しようとするのか、不満たっぷりの顔を大深五段に向けていたんだそうだす」
「ほう」
 阪田が機嫌を直してきたのを確認し、谷ヶ崎は続けた。
「すると、大深五段はこう言ったそうだす。東京の将棋指しであろうが大阪の将棋指しであろうが、旅の途中に広島へ至るとなれば、必ず汽車を降りて自分を表敬訪問する。その際には自分も一宿一飯の世話をして、出発のときには幾らかの路銀も持たせてやる。それ
が大深流の慣わしなのだが、世話をしたにも関わらず、礼状のひとつも寄こさない連中ばかりである。ところが木見金治郎だけは別である。もう十年以上も昔に、九州からの帰りに一晩だけ世話をしたのをずっと恩義にして、それからというもの年の瀬になると欠かさず大阪名物の昆布を送ってくれる。こんなに立派な人柄の将棋指しは、なかなかいない。だから師匠として紹介するのである」
 木見門下となった経緯を谷ヶ崎が説明し終えると、
「いかにも取り入り上手の木見はんを思わせる話でんな」
 あきれ半分の顔で阪田が言うので、
「たとえ人柄が良ろしゅうても、肝心の将棋が弱うては話になりまへんわな」
 谷ヶ崎が応じ、
「入門したんやのうて、入門させられたんだすな」
「そうだす、入門させられたんだす」
「阪田門下になりたかったのに、木見門下にさせられたんだすな」
「そうそう、そうだす、させられたんだす。阪田先生の弟子になりたかったのに、木見はんの弟子にさせられたんだす」
 言葉を交わすうちに、阪田はすっかりご機嫌になった。そうしてビフテキを一切れ口に入れ、もぐもぐと咀嚼してから言った。
「それにしても、あんさん、その升田幸三とやらのことをよう知ってはりまんな。誰ぞに聞いた話でっか?」
 待ってましたとばかりに、こんどは谷ヶ崎が身を乗り出した。
「本人の口からだす」
「ほう」
「先週の日曜日、久々に交遊社の将棋サロンに顔を出しましてな」
「ほうほう」
 将棋の筆頭師範として自らも在籍している中之島の社交クラブの名を聞き、阪田の顔に笑みが浮かんだ。愛妻を亡くし、自宅にこもるようになってからは、すっかり足が遠のいているが。
「そしたらなんと、指導棋士として来てたのが、入段したての升田少年だす。そこでさっそく手合せを、ということになりましてな。素人将棋とはいえ阪田先生より三段を許されているこの身、たとえ専門棋士でも相手は初段だすさかい先手番を譲ってあげましてん。勝負が始まり互いに角道の歩を突き合ったとたん、さっと相手の手が伸びてきて、いきなり角の交換だす。ほう力戦に持ちこむハラかと思いきや、相手は手にした角を駒台には置かず、なんと着物のたもとに放りこみましてん。この阪田門下の谷ヶ崎三段に対して角を落とすという小癪な真似に出ましてん」
「ひゃっひゃっひゃーっ」
 キンキン声が大笑いした。
「ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃーっ。それで勝負はどないなりましてん? もちろん、あんさんの負けでっしゃろ?」
 阪田の反応にムスッとしながらも、谷ヶ崎は頷いた。
「金と銀を密集させて、ジワジワと盛り上げてこられて、気がついたらペシャンコに押し潰されとりました。まあ、こっちも角を引かれて、カーッと頭に血が上っておましたさかいに」
「血が上ってのうても勝てますかいな。そもそも素人の三段に角を引いても楽勝できなんだら、専門棋士として前途はおまへん。しかも、あんさんに差し上げた三段は、大甘の三段だす。ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃーっ」
 谷ヶ崎のムスッがブスッに変った。けれども、すぐに気を取り直す。いくら将棋の技量の未熟さをからかわれようが、阪田が元気になってくれさえすれば、自分はそれで良いのだ。棋界の往年の風雲児・阪田三吉が、新しき風雲児・升田幸三の、みずみずしい生命にふれることによって。
「家出から棋界入りのことなど、本人の口から聞き出したのは、その対局の後だす。入門から入段までの二年間、慣れない内弟子暮らしの苦労もいろいろとあったみたいでんな。さてさて先生、これを見とくなはれ」
 そう言いながら谷ヶ崎は傍らの鞄に手をやり、中から畳んだ新聞を取り出すと、阪田に見えるようにテーブルに広げて置いた。
「昨日の朝刊だす。我らが升田幸三初段、見事に初陣を飾ってくれましたで」
「わてに字など読めまっかいな」
 と呟きながらも、阪田は谷ヶ崎の太い人差指が示した箇所を覗きこみ、
「あーっ! 田の字がある! 三の字がある!」
 ひときわカン高い声で叫んだ。
「升田幸三初段、東京の飯塚勘一郎六段との角落戦に快勝だす!」
 谷ヶ崎もまた弾んだ声で言い添えると、
「升田の田は、阪田の田とおんなじなんやな! 幸三の三も、三吉の三とおんなじなんやな! 読めまっせ! 読めまっせ! 升田幸三の名前が読めまっせ! このわてに、升田幸三の名前が読めまっせーっ!」
 顔をクシャクシャにして、阪田三吉は叫び続けた。


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