見出し画像

小説「升田のごとく」・第13話

 12月14日、火曜日。
 朝食を済ませた耕造は、自宅3階の書斎に入ると、昨夜三沢から受け取ったファイルを机の上に置いた。
 数百枚もの束になった書類の1枚1枚に、丹念に目を通しながら、重要と思われるポイントを箇条書きのメモにしてパソコンに打ちこんでいく。地道な作業は長時間に及び、書類の最後の1枚を読み終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 2度目の食事を取ると、しばらく休息して、再びパソコンに向かう。打ちこんだメモをプリントすると、A4用紙20枚ほどのサマリーができた。それを2度3度、通読し、それから耕造は目を閉じる。頭の中に、ファーストコピーが浮かぶのを待っているのだ。
 やがて眼を開くと、彼は猛烈な勢いでパソコンのキーを叩き始めた。いくつもの言葉の断片が次から次へと画面に現れてくる。
 数十分の没頭の後、言葉の放出を終えた耕造は、次の作業に取りかかった。パソコンの画面に溢れかえった長短さまざまなフレーズを、一つ一つ吟味し、あるものには言葉を付け加え、あるものはすっぱりと削除し、またあるものは他のフレーズと合体させた。
 まるでパズルに取り組むかのように、耕造が言葉を操っていくと、画面の中の文字群はしだいに規則正しく整理され、いつしか十数本のキャッチフレーズとなって配列された。
 それらを保存ファイルに収めると、耕造は銀座1丁目にオフィスを構える三沢のメールアドレスへ送信した。

 12月15日、水曜日。
 三沢から、ビジュアルデザイン案のラフスケッチが送られてきたのは、時計の針が夜の8時を少し回った頃だった。耕造が書斎へ行くと、ファクスが大量の紙を吐き出している。パソコンを起動させると、三沢からのメールが届いていた。
「増田様。昨日いただいたコピーフラッシュに基づき、ビジュアルアイデアを思いつくまま、ラフスケッチを起こしましたのでFAX送信いたします。コピー、デザインともに、まだ作業に着手したばかりですが、これほどの消費者ベネフィットを擁する商品ですので、今後さまざまな視点に立ち、お互いに発想の輪を広げていくことが不可欠ですね。ただし、問題は時間です。1月4日の社内コンペに提出するのは新聞見開き全30段カラー広告の原寸大カンプですが、その制作だけでも1週間が必要です。つまり提出日から逆算すると、アイデア決定のリミットは、今月27日の月曜日。今日から数えて、あと2週間しかありません。本番の、帝国不動産への提出が1月7日ですから、やむを得ないとはいえ、かなり厳しいスケジュールであることだけは確かですね。とにかく時間の許す限り、アイデアのキャッチボールを行い、訴求テーマを絞りこんでいきましょう。 三沢」
 メールの文面に頷くと、耕造は手帳を取り出し、カレンダーの中に制作進行スケジュールを書きこんだ。それから、ファクスからこぼれ落ちて床に散乱した紙を拾い集めた。
 三沢が作ったビジュアルデザインは、数十案にものぼり、さまざまな訴求ポイントからアイデアの創出がなされていた。新聞見開き広告の縮小サイズに枠取りをし、鉛筆で絵柄を描いたその上には、昨夜送信したコピーが太いサインペンで書きこまれている。
 すべてのラフスケッチにたっぷり時間をかけて目を通すと、耕造はそれらを表現アイデアのカテゴリーごとに仕分けし、床の上に1枚1枚、並べていく。
 それが終わると、彼は椅子の上に立ち、6畳の部屋いっぱいに敷き詰められた広告原案をじっと眺め渡した。そして、呟いた。
「まだまだ、だな。勝負は始まったばかりだ……」

 12月16日、木曜日。
 耕造は、朝食後のコーヒーを飲みながら、バルコニー越しに窓外の風景を眺めていた。住宅街の木々はすっかり葉を落とし、裸の小枝が、冬の風に小刻みに震えている。
 だが、耕造の目に映っているのは、遥かその先、東京都中央区のウォーターフロントに聳え立つ、3棟の60階建てタワーマンションだ。
 それらの最上階のリビングルームに、耕造は自分の身を置いてみる。季節を逆転させ、眼下の隅田川から次々と花火を打ち上げてみる。
 地上52階へおりていき、展望ラウンジに立ってみる。吹き抜けのガラスの向こうに、レインボーブリッジを眺めてみる。
 51階へと移動し、ジャグジーに入ってみる。窓越しの景色を楽しみながら、ゆったりと手足を伸ばしてみる。
 3棟のタワーを結ぶ、空中庭園を歩いてみる。運河と緑に囲まれた、広大で美しいランドプランを満喫してみる。
 海に面したアネックスへ降りていき、スポーツジムで汗を流してみる。25メートルプールに勢いよく飛びこんでみる。
 オール電化システムの、快適な室内でくつろいでみる。心地よい風に吹かれながら橋を渡り、銀座までちょっと散歩に出かけてみる。
 豪華なパーティールームを備え、いつでも敷地内のスーパーマーケットやクリニックが利用できる、豊かなコミュニティでの生活を想像してみる。
 先進のITを駆使したセキュリティシステムと、24時間の有人管理体制が守ってくれる、安らかな人生の日々に思いを馳せてみる。
 その時、突風が吹き、目の前の木々が大きく揺れた。
 現実の世界に引き戻された耕造は、朝食の後片付けを済ませると、書斎へ上がり、パソコンのスイッチを入れた。

 12月17日、金曜日。
 夜遅く、書斎のファクスが鳴った。前日、耕造が送ったフラッシュコピー案の第2信に応えて、ビジュアルデザインの追加案が三沢から届いたのだ。
 送られてきたラフスケッチは、いずれも耕造のコピーをなぞってアイデア作りが行われたものばかりで、斬新な閃きがなかった。
 耕造は、それを不満に思った。しかし、三沢を責める気にはなれなかった。自分が投げかける言葉に、パートナーの心を共振させる発想の広さと力が不足しており、それがデザイン案に制約を与えていることが分かっていたからだ。
 タレント案でいくか。耕造は、ふと思った。著名な人物をイメージキャラクターとして起用し、話題性豊かに商品デビューを行う。商品の持つ多彩なベネフィットを、タレント自身の属性に重ね合わせ、強烈なインパクトでメッセージを発信する。まさに50億円のビッグキャンペーンにふさわしい手法だ。
 だが、それは無理な話だ。
 業界トップの電広を筆頭に、30社もの広告代理店が競い合う今回のコンペ。大手各社は、こぞって大物タレントを起用してくるだろう。ところが、悲しいかな、中堅どころの新富エージェンシーには、そのようなキャスティング能力がない。タレント勝負の土俵で戦っては、万に一つの勝ち目もありはしないのだ。
 耕造は、ため息をついた。だんだんと、焦りが忍び寄ってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?