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花束のような恋をした 感想(ネタバレを含む)

今日「花束のような恋をした」を観てきた。とてもリアルで深く考えさせられる内容だった。

興奮が冷めやらぬうちにできるだけ感想を書けたらなと思う。

あくまで個人的な感想なので、「自分はこう思ったよ」みたいな感想や考察があれば、コメントしていただけたら嬉しいです。

よし行こう。

テーマ

テーマは「他人と生きることの難しさ」「恋愛が内包する残酷な普遍性」なのかなと感じた。

この映画には少し余白のようなものがあって、観ている人に解釈を委ねる部分があるように感じたので、テーマとして抽出できるポイントはたくさんあると思うが、この二つが特に印象的だったのでこれらについて述べていく。


他人と生きることの難しさ


恋愛においては共通の趣味や価値観が同じであることが互いを好きになる上で結構大きな条件であるように感じる。

同じミュージシャンが好きだったり、金銭感覚が一緒だったり、食べ物の好き嫌いが一緒だったりするのは嬉しい。

麦くんと絹ちゃんも例に漏れずそうだった。むしろもう一人の自分なのかと感じるくらい同じ趣味を持っている。

ゴールデンカムイ、白のスニーカー、きのこ帝国の「クロノスタシス」など、運命なのかと思えるほど同じ趣味や考えを二人は持っている。

ただ危険なのは、限りなく同じであればあるほど、小さな違いが大きなすれ違いを生む可能性をはらんでいることだ。

たとえば、絹ちゃんはラーメンが好き。冒頭のほうで絹ちゃんはラーメンのブログをやるほどラーメン好きであることが発覚したが、麦くんと絹ちゃんがラーメンについて話した描写はない。

また海辺においても、絹ちゃんに何も言わずしらす丼を買いに行ってしまう麦くんに対し非常に不安になってしまう絹ちゃん。

さらにはタトゥーについて。同じタトゥーをしているカップルを見て「もし別れたらどうするのだ」と考える絹ちゃんに対し、麦くんは同じタトゥーを彫っていることに対してそこまでの抵抗感を抱かない。

これらのちょっとした違いはたくさんの同じ趣味や考えを持っているからこそ、怪しく光って見えてしまう。そしてお互いがお互いを自分のドッペルゲンガーだと思ってしまうと、このような些細な違いがすれ違いを加速させることに気づけない。

フランス人の政治思想家であるトグヴィルもこんなことを言っている。

「すべてが標準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。」

同じアニメが好きでも違うキャラクターが好きなように、二つの円が限りなく同じ部分を共有していたとしても、完全に一致することはない。人と人はどこまでも他人なのだ。

たまに重なるくらいがちょうど良いのかもね。


恋愛が内包する残酷な普遍性


始まりがあれば必ず終わりがある。

作中に加持さんが「恋愛には賞味期限がある。」と言っていたがまさしくその通りなのだろう。

生きるということは死ぬということだし、桜が咲くということは桜が散るということだ。

絹ちゃんはこの思想が非常に強い。そしてこれは彼女が長年読んできた恋愛のブログの影響によるものであると推測できる。

だからこそ、麦ちゃんは同じタトゥーを入れるなんて信じられないと思ってるし、いつもどこか「終わり」を意識した言葉遣いになる。

ただ、いくら恋に終わりがあることを頭ではわかっていても麦くんと付き合いたいと思ってしまう、ましてや自分からの告白さえ考えてしまう絹ちゃんは限りなく人間っぽくて俺はそこが非常に好きだった。人って感情の生き物だよね。そういう頭ではわかってるんだけど、、っていう場面がいいなって思う。

あんなに幸せそうで、楽しそうな恋もいつかは終わってしまう。そんな残酷な普通をありありと見えせつけられたな。

でも決して無くなった訳じゃなくて、そこには確かにふたりが存在していて、同じ時を共有してた。


きゅんポイント


考察もいいんだけれど、絹ちゃんが可愛かったのできゅんポイントもしっかり記しておこうと思う。

1位 信号待ちでの「あと、こういうコミュニケーションは頻繁にしたいほうです。」

可愛すぎ。素直な感じというか。言葉が綺麗というか。

2位 なにかが始まる予感がして、心臓が鳴ったけど

   ドライヤーが音をかき消してくれた。

こん時の表情とか可愛かったな。この言い方も詩的で好き。

3位 調布駅で本を読んでいる麦くんに走って駆け寄って行くとこ。

無邪気か。そんな笑顔で駆け寄られたらニヤけるわ!


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映画の半券は栞にします。w


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個人的「花束のような恋をした」の主題歌 

 雨のパレード/ breaking down






読んでいただきありがとうございました。