見出し画像

パラリンピック聖火イベントから帰宅しました!

パラリンピックの聖火イベントから帰宅して4日経ちました。東京から帰ってきたので、念には念をで対面の仕事は2週間休みにし、在宅中です。

パラリンピックの聖火イベントに参加することで、志望動機を読んでもらえる機会が増えて嬉しく思います。もっと文章がうまかったらよかったのに・・・(-_-;) 

当日の様子は東京2020パラリンピック聖火リレーのライブストリーミング8/23より見ることができます☞https://sports.nhk.or.jp/paralympic/torch/events/20210823/

画像2

パラリンピック聖火ランナーの志望動機にも関係している先祖の和泉守さん。以前書いた記事『400年前に生きた人の存在が力になる』☞  https://note.com/goshurun924/n/nacfa0dea3a8b の一節『落ち武者ですのでけっしてきれいごとでは済まなかったと思います。』を補足させてください。

長南一族は平安末期から500年続いた連綿武士でしたが、大阪の陣で敗戦し牢人となりました。先に移動していた仲間と合流するために千葉(正確にいうと茨城の青宿)から潮に乗って浦戸に来たそうです。

野々島に着いてから、寒風沢に上陸するまで1年半~3年ほど船世帯だったと伝えられています。最終的に武士から農民になることで伊達政宗公から寒風沢への上陸許可が下りたのではないかと伝えられています。(長南氏の研究より)

500年続いた武士の暖簾を下ろすってどんな思いだったんだろう。農民になることにしたって、千葉から一緒にやってきた36人の部下たちにどんな思いで説明したのだろう・・・農民になることを36人の部下たちはどんな思いで受け入れたのだろう・・・自決した方が楽だったのではないだろうか・・・などなど。戦国の混乱期に生きた和泉守さんのことを思うといたと気の毒な思いと、よくぞ生き切ってくださったという尊敬と感謝の気持ちが湧いてきます。

もう一つ私の目にはっきりと焼き付いている光景があるんです。小学生のころ、今の塩竃市公民館本町分室で見た長南和泉守さんの人物パネルです。塩竃の歴史という小学校の歴史の副読本に塩竃を築いた人ということで一番最初に登場してます。人物パネルは白髪交じりの髭がすごく長くて白装束の姿だったような記憶があります。それはそれは恐ろしい姿にしか見えませんでした。あれは牢人の姿を表現していたのだろうか・・・と今になっては思えます。当時、私は一族の歴史に興味がなく、長南(ちょうなん)という姓は在日朝鮮人と間違われることがあり、出自を説明するのが面倒で、この姓が好きになれませんでした。

この歳になって思うことは、和泉守さんが生きることを選択したのは非常に苦しいことの連続だったのではなかろうかと思うのです。生き切ることを覚悟した和泉守さんは変化に強いタフな人だったと、その和泉守さんが生き切ったおかげで今、ここに自分がいるので、400年前に生きた和泉守さんから力をもらっています。

画像3

この画像は寒風沢の和泉守さんのお墓です。生きた時代も立場も環境も全く違いますがパラリンピックと和泉守さんがリンクしてならない聖火イベントでした。

画像4

8/23(月)公道での走行は中止となり、世田谷区砧公園にて点火イベントとなりました。沢山のスタッフが聖火ランナーのために一生懸命動いていました。

画像2

アンカー、宮崎の骨髄バンクランナーの樋口さんに聖火をつなぎました。これをご縁に次のフルマラソンは宮崎に行くことにしました!来年になりそうです。

ゴシュランこと鈴木由美子

フェイスブック https://www.facebook.com/yumiko.suzuki.shanti

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?