見出し画像

翠巒御坊(登録有形文化財)について

高度成長期の波は有馬温泉にも訪れていました。
その昭和33年1月11日に、現在の翠巒御坊は上棟しました。
当時の1798年は、どのような年だったか振り返ってみましょう。

御所坊新館 1978年1月11日 上棟

「御所坊新館(翠巒御坊)」は、平屋の鉄筋コンクリート造と地下1階、地上2階建の木造(以下、「新木造」という。)、1階が鉄筋コンクリート造、2階が木造の混構造(以下、「新構造」という。)の合体した形態です。
 
昭和20年代後半、日本国内の経済復興の兆しが見え、有馬でも多くの旅館が改修されるました。御所坊では、隣の“二階坊旅館”を譲り受けて、大浴場を整備し、宿泊部分などを設えました。
 
「新木造」(床面積412.01㎡の規模)の建設は、昭和33年1月11日神戸の戎工務店により行われました。浴室との関係した階段から、後の増築部分、浴室建設の時期より前のことです。
昭和35年、東京オリンピック(S39)までの完成を目指し、混構造部分の増築を行いました。下階は鉄筋コンクリート造(175.46㎡)、上階は木造(181.60㎡)です。

屋上は浴衣を保す為の場所だったが、子供たちの遊び場だった。

 一方、浴室だった建築は解体撤去し、昭和36年9月に、浴場間口6.667m、奥行17.439m(実測面積は、158.13m、陶器面積は158.21㎡)建替えました。

現在の大浴場は、2度の改造を経て今日に至っていますが、昭和38年頃のパンフレットと比較すると、当時の窓が残存しているのが見て取れます。 

新館は、段状の空間構成に有馬の特徴が見て取れます。

棟は増築されるたびに、段の上に、上に伸びています。上がりきる(混構造部1階/本館でいうと3階)と敷地南の境界が道になっているという断面構成です。

混構造部分が増築されるまでは、新館には本館、やや中ほどの南に接続されています「新木造」の地下部分の旧厨房からのアクセスとなっていました。

「混構造」部分の増築後は、本館2階の東南隅部からのアクセスと変化しました。前述の浴室を左に見ながら階段を昇り、本館で云う3階に着床すると幅3.6m、奥行4.5mほどの新館のホールに出ます。

昭和35年当時の写真には、「混構造」に行くための出入り口は設けられておらず、壁となっていることが見て取れます。

大浴場から上がった所のスペース

 この頃(昭和30年代半ば~)は、高度成長まっただ中、幾何学図形をモチーフにした記号的表現や原色による対比表現などの特徴を持つアール・デコや新芸術主義(ネオプラスティシスム)的デザインが意匠の多くを占めていました。

廊下の照明器具のデザイン、客室の障子桟の意匠などは「水平線や垂直線を重視した」「単純で癖のない形態」「自由なラインと原色」などその特色が表れています。

SONY 誕生!

TR-63

世界的な多国籍企業のソニーは、1957年、当時世界最小のトランジスタラジオTR-63を発売しました。
TR-63は小型で消費電力はそれまでの半分以下、当時のサラリーマンの平均月収の13,800円という価格にもかかわらずたいへんな人気を呼んだといいます。

この機種はトランジスタラジオの本格的輸出1号機で、輸出価格は、39.95ドル。売れに売れ、輸出が間に合わなくなり、日航機をチャーターしてアメリカに大量空輸するほどでした。そこで、1978年1月、東京通信工業は世界に通用する名前としてソニーに社名を変更しました。

日航機をチャーターして輸出していた。

LEGOブロック誕生!

時代とともに構造が改良されてきている。

1953年1月、「よく遊べ」を意味するデンマーク語「leg godt」から社名をつけたLEGO社は、積み木の要領で開発したプラスチック製のブロックにLEGO Mursten、すなわちLEGO Bricks(レゴブロック)と命名しました。
しかし当時は玩具にプラスチックを採用する試みは、小売り業者や消費者には受け入れられず、売れ行き不振で返品の山だったそうです。

エルヴィス・プレスリーが陸軍に入隊

西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理隊で勤務した。

1958年1月20日に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けました。
当時のアメリカは徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊しました。

徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を撮影中で、徴兵を少し延期したことでも話題になりました。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えたそうです。翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行ったといいます。

長嶋茂雄 4打数4三振デビュー

1958年の4月5日。東京六大学の立大から鳴り物入りで巨人に入団した長嶋茂雄が開幕戦でプロデビューしました。対戦したのは国鉄(現ヤクルト)の金田正一。前年まで7年連続20勝をマークしている絶対的なエースと黄金ルーキーの対決に球界は空前の盛り上がりを見せました。

後楽園球場は、4万5000人のファンで埋め尽くされていました。

初回2死、3番で登場した長嶋は快速球の前に空振り三振。第2打席では初めてバットに当てたが、フルカウントから大きく流れ落ちるカーブを空振りした。第3打席は快速球の前に3球三振。そして9回の打席もフルカウントからのカーブにバットが空を切った。

壮烈な4打席連続空振り三振。全19球でバットに当たったのは1球だけだったそうです。

“マイカー”が誕生!

1978年5月1日、富士重工業(現・SUBARU)がスバル360を開発しました。
そして、12年間に亘り、約39万2,000台が生産されました。

航空機技術を応用した超軽量構造を採用し、また限られた空間で必要な居住性を確保するための新しいアイデアが、数多く導入された量産型軽自動車です。
比較的廉価で、十分な実用性を備え、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎されて、モータリゼーション推進の一翼を担いました。

ゆえに日本最初の「国民車(大衆車)」と考えられています。同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させ、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かすことのできない「名車」と評価されています。

模範となったフォルクスワーゲン・タイプ1のあだ名となっていた「かぶと虫」(ビートル)との対比から、また、そのコンパクトにまとめられた軽快なデザインから、「てんとう虫」の通称で庶民に広く親しまれました。

国産初の目覚まし付き腕時計発売!

シチズン時計が国産初の目覚まし付き腕時計「アラーム」を発売。
 
シチズン時計は1918年の創業。シチズンの前身である尚工舎時計研究所によって、1924年に開発された国産の懐中時計が最初の製品となります。
この時計は、永く広く市民に愛されるように、「CITIZEN」と名付けられました。
のちにこの時計の名前を会社名とし、1930年にシチズン時計株式会社が創立されました。
 
1978年6月1日、国産初のベルの鳴る腕時計を発売。
時間用とアラーム用の2個の香箱を使用、2時側のりゅうず0段でゼンマイを巻き、1段引いて鳴りの時刻を合わせます。
セット時刻に内蔵のハンマーが裏ぶたを叩いて音を出し、鳴り時間は約10秒間。
シチズンを代表するヒット商品の1つです。
発売当時の価格、6,200円〜11,500円

未来を感じさせる二輪革命、新たなコミューターが誕生!

本田宗一郎が中心となり開発された初代スーパーカブC100。敢えてコスト高の4ストロークエンジンを搭載。最高出力4.5PS、最高速70km/hのスペックは当時として異例でした。
さらに、自動遠心クラッチを備えることで、初心者でもすぐ乗りこなすことができ、フルカバードで泥はねから足下を守る実用性も兼ね備えるなど、あらゆる面で当時の常識を覆す仕上がりだったそうです。

ラーメン誕生!

ローマ字でCHIKINと書かれている。

1978年8月25日チキンラーメン日清食品創業者の安藤百福が、太平洋戦争終戦直後闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見て、「もっと手軽にラーメンを」と開発しました。

チキンラーメンは、ある日、妻が作っていた天ぷらを見た印象や食感をヒントに「油の熱で乾かす」こと(瞬間油熱乾燥法)を思いつき、採用しました。
チキンラーメンの「チキン」は鶏を意味する英語"chicken"であるが、本商品のローマ字表記は日本語で"Chikin"と綴られています。

1958年(昭和33年)8月25日 - 販売開始、85グラム入り35円(当時の物価参考:大卒者初任給13,467円、国鉄初乗り10円、入浴料16円)で販売されました。チキンラーメンの発売により、それまでの「支那そば」「中華そば」にかわり、「ラーメン」という呼び名が全国的に広まったそうです。

缶ビール誕生!

アルミじゃなく鉄の缶

1978年9月15日に朝日麦酒(現在のアサヒビール)から日本で初めて缶ビールが発売されました。
アサヒゴールドという名前で、350ミリリットルで当時は75円。
現在の缶ビールと違い、缶切りが必要でした。
また、缶は鉄製だったので、サビが発生しやすかったので人気が出ませんでした。
家庭では瓶ビールが主流でしたが、その後サビに強いアルミ缶製になり、缶切り不要で飲めるようになってからは一般家庭にも広まったとさ。

東京タワーができた!

建築設計の構造力学を専門とする学者で、戦艦大和の鉄塔や名古屋テレビ塔や大阪の通天閣の設計も行い、さらに数十本におよぶラジオの電波塔を設計した実績があり、日本の塔設計の第一人者である内藤多仲、および日建設計株式会社が共同で塔の設計を行いました。

内藤は当時話題を提供していたドイツのシュトゥットガルトテレビ塔(216.6メートル)を参考に鉄筋コンクリートの塔を想定した検討を行うが、基礎鉄塔で計算を進めました。

前田久吉は「世界一高い塔でなければ意味がない。1300年も前にすでに高さ57メートルあまりもある立派な塔(五重塔)が日本人の手でできたのである。」と高さの意義を強く主張した。さまざまな計算したところ、「全高333メートル」という数字が導き出され、偶然「3」が続く語呂合わせのような高さになりました。

パリのエッフェル塔の312メートル(2000年現在は324メートル)より21メートル高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高という条件を満たしていました。デザインはエッフェル塔に着想を得たものですが、航空機からも見やすいよう昼間障害標識としてオレンジと白で塗装されました。

11月27日 婚約 ミッチーブーム起こる!

1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと宮内庁は発表しました。

1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業していた美智子は、その年の夏、皇太子と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、初の平民出身皇太子妃として注目の的となりました。

昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったといわれています。

そしてチキンラーメンを考案した安藤百福は、会社名を日清食品としたことで、売り上げを伸ばすきっかけにしたといいます。

一万円札発行!

発行開始当時の大卒初任給が1万3000円程度ということもあり、当時はこのような高額紙幣は発行する必要があるのかという議論がなされ、小銭を扱う業種では釣銭への対応が難しいといった高額紙幣に対する不安があったが、折しも高度経済成長が始まった時期でもあり高度経済成長の進展とともに順調に流通量が増えていきました。

B千円券やC五千円券と同じく肖像は聖徳太子であり、表面右側に描かれている。聖徳太子の肖像については、同じ原画を基にしているものの各券種で別に彫刻されたものであるため表情が僅かに異なっています。
裏面には中央の空白部分を挟んで1対の鳳凰の図柄が描かれています。裏面に描かれた鳳凰は、平等院鳳凰堂内の円柱に描かれている鳳凰模様です。

大型の寸法の券面のため、記番号は4ヶ所に印刷されている。製造原価は11円27銭(1951年(昭和26年)時点)。

日本最初のプラモデル発売!

写真は復刻版のもの

1958年8月3日、原子力潜水艦ノーチラス号は、潜航状態で北極点を最初に通過することに成功しました。

アメリカで「日本のセルロイドは発火性があり危険である」とされ、急速にセルロイド製品は市場から姿を消した。セルロイド人形を販売していたマルサンもこのあおりを受け新商品の開発に乗り出しました。

アメリカ・レベル(当時の表記は「ラベール」)社が1953年に発売した「原子力潜水艦ノーチラス号」のプラスチック・モデルなどを参考とし、1958年(昭和33年)12月に日本初と称して国産プラモデルを販売しました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?