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考えるほど沼にハマる「正欲」の自己矛盾性

朝井リョウの「正欲」を読了した時、私の中に抱かれた感情というものは、「これはやられたなぁ。。」であった。

誰もが心の奥底の方で微かに思っていたことに違いない。

いわゆる「正しさ」という凶器をこれでもかとこの小説を通して、「矛盾」という形で突きつけられたように感じた。

これは人間の卑しさの抽出であり、炙り出されにくい闇を見事なまでに昇華させた作品だ。

全面オビのコピーには、

読む前の自分には戻れないー

全面オビのコピー

と記載されている。

なるほど、確かに後戻りはできない所に来てしまったように感じる。

冒頭で「これはやられたなぁ。。」と記載したが、この本の解説を担当している臨床心理士の東畑開人氏は下記のように述べている。

この小説は「正しい性」を告発する。ただし、徹底的に告発する。つまり、「正しい性」を告発することの「正しさ」まで告発する。新たな「正しさ」が新たな「正しくなさ」を作り出す構造を明るみに出すのだ。

「正欲」解説より

多様性を考えた時、その「多様性」の範疇から漏れ出てしまう「多様性」のことは考えられない。

要は、自分の信じたい「多様性」を礼賛するのが人間の悲しい性なのだ。

「正欲」のストーリーを読み進めると、この世の中には到底理解できない事象や、到底理解できないジャンルの人間がいるという当たり前の事実に気づかされる。

しかし、それに気づかされた時点で「多様性」について分かったつもりでいる私のような心理をも、著者の朝井リョウ氏は糾弾しているように思えてならない。

何を糾弾されているというのか。
「そうやって理解してあげている側に回って高い視点から同情してマウントするのが果たして多様性ってことなの?」と言われているような気がしてならないということだ。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

新潮文庫P248

東畑開人氏が「朝井リョウは意地悪だ」と、解説のタイトルに述べているいるがその気持ちが痛いほど良くわかる。

物語の登場人物である夏月(なつき)の心理描写は心の琴線に触れる。

「どこにいても、その場所にいなきゃいけない期間を無事に乗り切ることだけ考えてる。誰にも怪しまれないままここを通過しないとって、いつでもどこでも思ってる。」

夏月のセリフ(新潮文庫P201)

夏月は思う。既に言葉にされている、誰かに名付けられている苦しみがこの世界の全てだと思っているそのおめでたい考え方が羨ましいと。あなたが抱えている苦しみが、他人に明かして共有して同情してもらえるようなもので心底羨ましいと。

夏月の心理描写(新潮文庫P242)

この世の中には人の数だけ「スタンダード」いわゆる、「普通」という形がある。

私にとっての普通、他人にとっての普通。

その「普通」の形が大多数を締めれば締めるほど、それがいわゆる大多数の人間としての「普通」に収斂されていく。

要は、「普通こうだよね。」と言われるときの「普通」はマジョリティが共有している「普通」に過ぎない。

その「普通」という境界線の外側には「あんまり普通ではない」、「そこまで普通ではない」、「ほとんど普通に該当しない」、「全く普通でない」という果てしなく無限に広がっているグラデーションの世界があることを忘れてはいけない。

人間は結局、自分のことしか知り得ない。社会とは、究極的に狭い視野しか持ち合わせていない個人の集まりだ。それなのにいつだって、ほんの一部の人の手によって、すべての人間に違う形で備わっている欲求の形が整えられていく。

新潮文庫P359

「読む前の自分には戻れない」とあるが、確かに戻ることは困難だろう。

人間に対しての、解像度が明らかに上がるがそれをも「分かって気でいるなよな。」と突き付けられている気になるのがこの本の凄い所だろう。

分かれば分かるほど、分からなくなる。

ソクラテスの「無知の知」にも多少似ているように思う。

最後に、著者がこの本で言いたかってであろうメッセージを登場人物のセリフの形で紹介して筆を下ろそうと思う。

「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

大也のセリフ(新潮文庫P443)



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