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こじれた人間関係を修復する方法

大輝は、妻との関係がギクシャクしていることに気づいていた。

この関係性はこの先ずっと続いていくのではないかと言う不安と闘っていた。

大輝は、優柔不断な性格から、自分の弱さと向き合うことから逃げていたのだ。

優しさとは、臆病さの裏返しである。

優しさとは、嫌われたくないと言う思いの裏返しである。

優しさとは、認められたいと言う執拗なまでの負の執念である。

優しさとは、臆病さと表裏一体である。

優しさとは、つまり軸を他人に委ねてしまっている心理的状況のことなのだ。

鷲田清一氏の、『「待つ」ということ」という著書の中にこんな一文がある。

〈待つ〉という行為は、そうした「応え」の保証がないところで、それでも一方が関係を願いつつ、あるいは信じつつ、それを保持しようとするところに生まれる。

鷲田清一 「待つ」ということ

妻と心理的に距離感ができてしまったのは一方的に大輝の責任でもある。

つまりそれは、彼の不義によるものだ。

大輝は、自分の犯してしまった過ちについて後悔の思いと、心の奥の方では自分を正当化したい思いとのせめぎ合いに直面していた。


しかし、とてもじゃないが正当化できるシロモノではないのだ。

彼は、ずっと煮え切らない妻の態度に苛立ちを覚えていたが、それが自分の責任でもあるという状況に底知れない救いようの無さを痛感していた。

何とか、当時の関係性を取り戻したい。

あの時の何でもないことに笑い合えるような関係性に。

彼に求められているのは何だろうかと考えた時、彼は「待つ」ということが欠けていたことに気づいた。

それを鷲田清一氏の著書を通して、心の奥の方で悟ったのだった。

あぁ、自分は心の奥の奥の方でズルい行いをしていた。

そちらがその態度で出るなら、こちらも平行線ですよ。

私はもう態度を入れ替えたんですから。

心の底から後悔しているんですから。

そんな人間をそれ以上執拗なまでに、糾弾するというのですか。

そんな思いとそれに付随した態度を妻にしてしまっていたのだ。

彼に必要なものは、「待つ」ということだ。

〈待つ〉ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。否、いなければならない。〈待つ〉とは、その意味で、抱くことなのだ。

鷲田清一 「待つ」ということ

「待つ」という行為と、「信仰」とは似ている。

新約聖書のヘブル人への手紙の中に、下記のような一文がある。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

新約聖書「ヘブル人への手紙」より

大輝に必要なのは、当時の関係を「祈り」を抱きながら待ち続ける、という信仰的姿勢なのではないか。

それは容易なことではない。

極悪殺人犯が、希望も何もない監獄人生の中でただただ、自分の過ちを悔い続け、希望のない中を生きること自体を真っ当しながら、死の日を待ち続けるその心持ちと互換性があるのかも知れない。

一度こじれた人間関係は、「待つ」という二文字に収斂される。

時間の経過はもちろん必要だ。

そこには、望んだ事柄を手に入れることはできないかも知れないが、それを望んでいるというパラドックスが生ずる。

「待つ」ことは苦しいのだ。

「待つ」ことはひたすらに忍耐を要する。

「待つ」ということは愚直であり、飾り気がなく、面白みもない。

「待つ」ということは、地味であり、誰にもその不甲斐ないような心持がはたからは、分からない。

そのような心理的苦痛の包含している内的状況が「待つ」ということだ。

それが大輝の妻ににおける人生の懺悔録である。

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