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連載小説「和人と天音」(5)

 天音

 母が死んでから一週間が過ぎた。
 十年ぶりに一緒に暮らし始めた「父」の家で、五時前、空が白み始めた頃に天音は目を覚ました。目覚めると昨夜の激しい風の音が嘘のように凪いで静かだった。天音はいつものようにぐずぐずベッドの中で寝返りを繰り返したりしていないで、さっさと起き上がると着替えて窓から海を眺めた。夜明けの海は、薄い灰色に染まりひっそりと音のない世界に溶け込んでいた。
「母さんはもういない」
 誰かの声がした。数日前から、天音は誰かに見張られているような気配を感じていた。その見えない誰かから話しかけられた気がしたが、そんなはずはなかった。声は天音の口から漏れ出たもののようだ。
 
 物心ついた頃から、東京の下町で天音は母と二人だけで生きてきた。父の記憶はなかった。小さい頃、時々顔のない熊の夢を見た。顔のあるべき位置に白い霧のようなものがゆらゆらしている熊に、優しく抱擁されたかと思うと、激しく頬を叩かれた。その瞬間、心も身体も固まってしまい、泣きながら目を覚ました。小学校の高学年になって、いつの間にか夢を見なくなった。あの熊が父だったのかと、天音は思うことがあったが、母にそのことを話したことはなかった。

 中学に入学する時に、学校に提出する書類を準備していて、母にどうして自分には父がいないのかを聞いたことがあった。離婚したことはなんとなく知っていた。誰か母以外の人から噂話のように聞かされたことはあったが、それまで母に離婚について訊ねたことはなかった。
「離婚したのよ。十年前、あなたがまだ二歳の頃、それからずっとあなたと二人で生きてきたの」
「どうして離婚したの?」
 それが天音の一番聞きたかったことだが、母はとても辛そうな顔をした。そして、しばらく黙っていた。天音も黙って母の答えを待った。でも結局、母は答えてくれなかった。
「ごめんなさいね。今は言えないわ。あなたがもっと大人になってから話すから、それまで待って」
 その時の話はそれで終わった。母は真っ赤な目をして、口を閉じてしまった。母がそんな風になるとどうしようもないことを知っていたので、天音はそれ以上しつこくしなかった。でも、ついに母から離婚の理由の聞かされることはないままに母はいなくなった。

 一週間前、中学三年になった天音のゴールデンウィーク前最後の授業の日に、母は交差点で右折するオートバイに弾き飛ばされた。その交差点の角にあるスーパーマーケットの本社ビルから出てきたところだった。母の仕事は生命保険の営業だった。オートバイを運転していたのは十八歳の少年で、先行する乗用車を追い抜かそうとしてアクセルを踏み、横断歩道を渡ろうとしていた天音の母に気づくのが遅れた。すぐに救急病院に運ばれたが、頭を強く打って広い範囲で脳内出血しており、天音が学校から病院に駆けつけたときには母はもう亡くなっていた。
 その夜に父だと名乗って中年の男が表れた。天音の心は凍ったままで何も感じなかった。

「名前は、いちかわたける。覚えているか俺のこと、母さんから聞いたことあるか。たけるという字は丘の下に山と書くんだ」
 その男ははなんだか苛立たしそうに言ったが、天音の返事など期待していない風に喋り続けた。その時、天音は気がついた。市川という姓を母も使っていた。天音も市川天音という名前だった。母は離婚と言っていたが、法律的な手続きは何もしていなかったのかもしれない。
「この人は、君も知ってるように沖縄の出身で、高校を卒業するとすぐに東京に出て来て、築地の市場で働いてた。二度と帰らないつもりで、家を飛び出して来たと言ってた。仲買人として毎日築地に行っていた自分と知り合って、色々あったけど、・・・結婚した。結婚してしばらく一緒に自分の住む湘南で暮らした。でも、君が生まれてよちよち歩きを始めた頃、一方的な理由で離婚したいと言い出して家を出て行ったんだ」
 市川岳は、遺体の横たわるベッドを前にして乾いた声で話した。気持ちを無理に押さえつけているような話し方だった。そして、天音の顔をじっと見つめた。
「この人があの顔のない熊なのかも。私のことなんか何とも思っていないのだ」
 声に出さないで、天音は独り言を言った。

 母が死んでからのこの一週間、天音の心は凍えて立ち尽くしたままなのに、天音の境遇はどんどんと天音の意志とは関係なく引き回されて行った。
 天音は、市川岳と湘南で暮らすことになった。
「児童相談所やら、教育委員会やら、いろんな役所が寄って集ってそういうことにしてしまった。児童手当がどうとか言うけど、たった月に1万円だぜ。お前の食費にも足りないよ」
 市川岳は、そう言って苦い顔をした。天音に呼びかける「君」が、「お前」に変わっていた。


 天音には自分の運命の急展開に抵抗しようがなかった。沖縄時代の母の係累がまったくわからず、唯一連絡の取れる肉親が父だと名乗る人以外にいないのだ。学校も東京下町の中学校から、湘南の中学校に転校することになった。都心の川沿いの学校から小高い山の中腹の学校に変わることになって、今日が初登校日だった。
 新しい中学校の校長室で、中年の女性教頭と初老の校長に挨拶をして、市川岳は帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、中学を卒業するまでは、この人の言う通りにしよう。あと一年の辛抱だ、と天音は自分に言い聞かせた。

つづく


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