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連載小説「和人と天音」(20 最終回)

「響さん、急でごめんなさい。本当にお世話になっていいかなあ?」
 天音はその日学校からバイト先に着くなり、響に話しかけた。家出して居候したいということは朝メールしてあった。
「いいよ、勿論、今夜から一緒に帰れるね。楽しみ」
 響は本当に嬉しそうな顔をして、こともなげに答えてくれた。
「響さんのお母さん、大丈夫なの?許してくれたの?」
「勿論よ、あの人はあたしのこと信用してるから全然大丈夫。この前、家出したら来ていいよって言ったでしょ。もう、あの時にあんたをしばらく預かってもいいか母に話して、了解とってあるのよ。心配ない、心配ない」
「でも、卒業式まであと3ヶ月あるよ。そんな長くいいかなあ?」
「いいって言ってるでしょ。あんた、もう家を出てきちゃったんでしょ、心決めたら、後ろ向かないで前を切り開いていくしかないの」響は力強くそう言うと、天音の肩を両掌でポンポンと軽く叩いた。

「それにね、あんたがうちに来てくれたら、あたしにもメリットがあるよ」と言って響は天音に笑いかけた。「1月にセンター試験があって、2月に二次試験、この2ヶ月であたしの当面の運命が決まる。さすがのあたしでもちょっと恐ろしい。自分がどんなになるかわからない。だから、近くに天音がいてくれるのはとても助かる。あたしの受験勉強の心理面での援軍なのよ、天音は」
 その響の言葉は、満更単なるリップサービスでもなさそうだと天音は思った。
私たち、これから本物の勝負が始まるんだ、頑張ろうと思い、心に力がみなぎる気がした。

 その日から、天音は芦田家の居候になった。芦田家のお母さんはスナックの雇われママをしているので朝は遅い。だから天音は響や恭二と気ままに作った(作らないで飲み物だけの日も多かったが)朝ごはんを食べて中学に通い、昼は学校前のパン屋の調理パンを食べ、夜は響と共にアルバイトしていたイタリアンレストランの賄い飯を食べた。
 天音は中学卒業後のことを考えて、できるだけ金を使わない生活を心がけていた。それでも時々は、バイト後も受験勉強に精を出す響のために、コンビニ食の差し入れをした。おでんやインスタントラーメンだが、響が3人でとリクエストすることもあった。そんな時は恭二もいれた3人で深夜にラーメンを啜りながら、ネットで仕入れたジョークや学校の教師の物真似にきゃっきゃっと盛り上がった。
 響が勉強に集中している時は、できるだけ自分の存在そのものを消してしまうように天音は努めた。音を立てず、気配を消して、台所のテーブルに座って美容やファッションの本を読んだり、恭二の部屋でゲームをしたりした。寝るときは響の部屋の押し入れに布団を敷いてベッド替わりにしていた。
 芦田のお母さんとはあまり顔を合わす時間がなかったし、顔を合わしても天音に気を遣わせるような態度を全く取らない人だった。子供の自由を尊重してというより、家のことは響に任せて特別な関心をはらわないようだった。響と母親とが話しているのを聞いていると、どちらが母でどちらが娘だったか勘違いしそうになる、と天音は感じた。

 学校生活は淡々と過ぎていった。岡田は今では天音を無視し、話しかけてくることはなかった。これまでで初めて、天音は自由を感じた。芦田家に世話になっているのだが、家でも学校でも誰の顔色を伺う必要もなく、自分の行動を制約するものが何もないように天音は感じた。
 岳は天音を探そうとしていないようだった。かつて、天音の母が天音を連れて家を出た時と同じだった。天音には岳の気持ちはわからないが、きっと家を出てしまえば岳の自分に対する執着は薄くなるだろうと思っていた。目の前にいない人のことはすぐに忘れてしまう、あるいは忘れたふりをするのが岳流だということに天音は気づいていたのだ。

 それでも、響は岳の反応を心配して、ある日曜日、岳が働いているコンビニを訪ねた。コンビニ付属の小さな事務室で響は岳と向き合った。天音に聞いて想像していたよりも岳は若々しくて美男だったが、会ってからずっと無表情で、何を考えているのかわからない男だと響は思った。
 天音の年頃にはありがちな家出ごっこで、自分にもあった、本人が帰るというまでは自分の家で預かっているから心配しないように、と話したが、岳の表情が動くことはなかった。その岳との会見のやりとりを響が天音に話してくれた。

「変人だね。普通は一人娘に家出されたら大騒ぎするもんだけど、あの人はすっごく冷静、というよりなんかあたしの話を興味なさそうに聞いてた。あたしがどんな人間かも興味ないみたいで、どこで知り合って、いつから友達だとか何も質問しないの。」
「それで、なんだか腹が立ってきて、あたしとぼけてあんたが家出した理由をあいつに聞いたのよ。なんか思い当たることないかって。そしたらなんて言ったと思う?」
「自分は天音の本当の父親ではないかもしれない。あんたのお母さんが二人の男と付き合ってて、どっちがあんたの父親かわからない。その話をしたから、あんたは家出したに違いないって言ったのよ。実の父親がそんなこと赤の他人に話す?呆れたよ。家出して正解だよ。あいつはあんたの父さんじゃないよ」

 12月も末のある土曜日の夕方、三浦和人の家でクリスマスパーティが開かれた。母の初枝はパエリアやスペイン風オムレツなど、自分の経営するスペインバルの名物料理を用意してくれた。初枝のスペインバルはいつもは月―金の営業なのだが、クリスマスシーズンは土曜も店を開いていたので、料理を用意すると仕事に出かけた。
 6時からの約束だったが、約束した時間の10分前にマンションに住んでいない3人の客が揃った。芦田響、恭二の姉弟と、響の「親友」の市川天音だった。和人のパーティやろうぜという誘いに、大好きなじいちゃんを亡くして沈みがちな和人を元気付けようと恭二が姉の響を誘い、響が天音を誘った。6時には同じマンションに住んでいる岩井直之と桜井真知子がやってきた。

 パーティのメインは大皿に盛ったスペイン料理を好きなだけとって食べる会食だった。飲み物は冷蔵庫に炭酸系の飲料や果物のジュースが用意してあったが、響が持ってきた缶ビールを出すと、歓声が上がった。結局、桜井真知子以外の全員がコップに一口ずつビールを飲んで乾杯することになった。「カンパーイ」の声に合わせて、桜井真知子は舌の先で小さな盃に入れたビールの泡を少しだけすくうように舐めた。間髪を入れずしかめ面をして「まずー」と叫んだ。その声を聞いて皆大声で笑った。
 乾杯の後、食事を始めた。食べながら一人ずつ得意なこと、好きなことの自己紹介をした。自己紹介よりも、それに誰かがからかって入れるツッコミが受けた。
「三浦和人です。拳法をやってて、回し蹴りが得意です。好きなのは平飼いの鶏が産んだ卵かけご飯です」という和人の自己紹介には、「この人が本当に得意なのはオナラです。オナラでスズメの学校を演奏できます。でも今日はやめてもらいます。時々つい中身が出ちゃうことがあるんです。今日はちょっとお腹がゆるいそうですから、やめときましょう」と恭二がツッコミを入れて、大いに受けた。

 賑やかに食事し、9時になった。岩井直之と桜井真知子はそれぞれ母親が迎えにきて帰っていった。マンションに住んでいない3人も帰る準備を始めた時、チャイムがなった。和人が入り口ドアに向かうと、外からドアが開いた。
 三浦洋だった。この前来た時より緊張した顔をしていた。
「どなたですか?」和人は初めて会う人に向き合ったように誰何した。
「三浦洋だよ、この前会ったろう。お母さんいるかい?」
 三浦洋が尋ねた時、帰り支度をした3人が入り口に出てきた。
「いないし、あんたに会う必要ないて言ってた。もう来ないでください。今度来たら警察呼びますよ」和人が強い調子で言ったのを聞いた恭二が和人を庇うように寄ってきて、和人の耳に囁いた。
「和人、どうかした?ひょっととして、この前のおっさんか」
 和人は頷いた。
「帰んなよ、おっさん、やばいことになんないうちに」
 恭二が言うのを聞いて、三浦洋はもう一度名乗った。
「私は三浦洋、この子の父親だよ」
 脅すような声だった。

「三浦洋だって、天音」響が天音の両手を握り締めながら言った。
 天音は何かを確かめるようにじっと三浦洋を見つめた。そして、響の手を握り返して首を横に振った。
 響と天音のやりとりは恭二と和人には意味がわからなかった。二人は三浦洋の手首を掴んでドアの外へ引き摺り出した。三浦洋は案外簡単に二人の力に従った。しかし、マンションの廊下に出た途端、両手を強く振って和人の手を振り払うと自由になった拳で恭二の腕の付け根を突いてきた。恭二は思わず手を離した。和人が三浦洋の右の脛に回し蹴りを叩き込んだ。よく腰の入った会心の一撃だった。和人の足の甲も痛んだが、三浦洋はもっと痛そうにへたり込んだ。もう一度、和人と恭二はその三浦洋と名乗った大人の男の両脇を抱えてマンションの玄関まで連れて行き、自動ドアから外に投げ出した。三浦洋は大きく息をしながら、何も言わず、よろよろと帰っていった。

 4人はもう一度、三浦家の部屋に戻って一人一缶ずつ、ちびりちびりとビールを飲みながらさっきの出来事を話し合った。
天音の父親はやはり市川岳だと天音が話した。母が亡くなる少し前、母から天音は市川岳のことを聞かされていたが、ずっと市川岳を父と認めたくなかった。今夜、三浦洋を見て、やっぱり市川岳が父親だと分かった、と。
「でも、もういいわ。誰が父親でもいい。あたしはあたしで生きていく。人より少し早いけど、あたしは自立する。ココ・シャネルみたいな女性になる。響さんも頑張ってスーパードクターになって」
「うん、絶対実現してみせるよ、あたしの夢。お金のない人でも診て治せる病院を作る。貧富の差が医療の質を決めない世界を作る。世の中から治るはずの病気で死んでいく人を無くす」
「ぼくは母さんを守る。三浦洋でも、どんな大人の男でも、ぼくは負けない。強くなる。強い男になって母さんを守る。世界中の弱い人を守る」
「俺も姉ちゃんと母ちゃんを守る。インターネットを勉強して、腕一本で稼ぐ。その金で姉ちゃんの夢を実現させる。腕一本の仲間で助け合う」

 あの日以来、三浦和人と市川天音は仲の良すぎる姉と弟のように一緒にいることが増えた。土曜日曜の夕方、和人の拳法の練習に天音が付き合って、和人が回し蹴りをするサンドバッグを抱えた。蹴りが入るたびに華やかな声をあげた。和人が恭二と一緒に天音と響の働くイタリアンレストランに行って、いつも多めに盛り付けてもらったパスタを食べて歓声をあげることもあった。
「姉ちゃんと俺より本物の姉弟みたいだぜ」そう言って恭二がよく和人を揶揄ったが、和人は嬉しそうに笑いながら「いや、本物の姉弟ですから」と答えてすましていた。

 三月になった。和人は小学校を卒業する。天音は中学校を卒業する。そして、響は高校を卒業する。既に関東地方の国立大学医学部から合格通知を受け取っていた。恭二は中学1年生が終わる。
 子供たちの新しい世界に向かう道は泥だらけかもしれない。ゴツゴツした岩だらけの峻厳な坂道かもしれない。でも、自分の心と真正面から向き合って目的地を決めていれば、頑張れる。歩き続けられる。
 子供たちの新しい世界は、波瀾万丈の華やぎに満ちた世界ではないかもしれない。でも、毎日の繰り返しの中に小さな不思議を見つけて、自分なりの工夫をこらして解き明かす努力を続けていけば、世界に光が、心に喜びが膨らんでくるだろう。
「あなたの心の命ずるままに、目的地を決め、あなたなりに、一途に目指そう」
卒業式には、そんな言葉が風に乗って聞こえてくる。こんなBGMに乗って。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう (「風の又三郎」宮沢賢治)


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