会ったこともない、おじいちゃんへ

私が生まれたときは、曽おじいちゃんと、ばあちゃんと二人で家を支えていた記憶です。曽おじいちゃんが、おじいちゃんの代わりになって、鶏を捌いたり、10円玉もって、駄菓子屋で、飴玉買ってくれました。

話は飛びますが、おじいちゃんのおかげで、姉ちゃんに、ミルクを横取りされても、搾りたての一升瓶ミルクがいつも家にありました。それを、オヤジが鍋でわかしてね、すると、膜ができて、それをペロッとめくって、温かいミルクが飲めました。

私たち姉妹は、どちらかと言えば、チビだけど、保育園では、脱脂粉乳の時代に、家に帰れば、搾りたてのミルクが飲めました。

おじいちゃんの、写真は、オヤジの写真とソックリだったよ。水兵さんの服着てたの覚えてます。

フィリピン沖で、戦死と、墓石に彫られていることだけしか知りませんでした。

ある時、近所のオジサンが、おじいちゃんのことを覚えていてくれて、地元の地方紙に、「町内の今昔」だったか、おじいちゃんが、何をしていたのか、何をしようとしていたのか、書いてくれたので、職場でその記事を読んだのが、私が30過ぎでした。それまで、おじいちゃんが、どういう人なのか、全く知りませんでした。ほんの、片隅の記事でしたけど、目からウロコで、胸が熱くなりました。

おじいちゃんは、戦後のことを考えてなのか、生きるためなのか、種牛を買って、家で飼い始めた矢先だったんですね、それから赤紙がきて、出征。ばあちゃんが、末っ子のチビのオジサンを連れて、近所の同じような人らとともに、広島の呉港にお見送りに出向いた話を、ばあちゃんが、いつも子守唄代わりに話してくれました。それが、最後だったんですね。

その後、終戦のどさくさで、残されたオジサン、オバサンらで開拓して、小さな牧場開いて、そのおじいちゃんの牛を育てていたんだと思います。たった一枚の小さい時のスナップ写真、少し背の高い姉ちゃんとチビの私がまとわりついているものがあった記憶です。今でも、牛の匂いを覚えています。

天国では、家族会開いて、色々とあーだ、こーだったと、話していることだと思われます。曽おじいちゃんは、ずっと前に、ばあちゃんも、オヤジも逝きました。

おじいちゃんの、ミルク、美味しかったよ。ありがとう、おじいちゃん。

(牧場は、もうないけどね。)

(おしまい)




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