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スピリチュアルと哲学と文学と

こんにちは彭城吾朗(さかきごろう)です。

ここ7年くらい、
大学ノートに手書きの日記をつけていて、
日によっては1日に3ページくらいも書きまくるのですが、
最近noteの投稿に取り組み出したら、
手書き日記のほうがめっきり手薄になってしまいました。
noteエッセイ書くのも楽しいけど、
手書きのほうも続けたいところです。

三十歳頃仲良くしていた、
筑波大で哲学を専攻してた友人がいたのですが、
あるとき焼き肉おごってやるからと焼き肉屋に呼ばれ、
行ってみると彼は先に来ていて、
スピリチュアリズム関係の本を何冊もカバンにチラつかせていました。
当時スピリチュアルの知識ゼロだった私はなんの本読んでんだよと尋ねると、
彼が話し出しました。
「俺大学で哲学学んだけどさ、哲学って世の中のこと人生のことを小難しい言葉並べてああでもないこうでもないって捏ねくり回してるだけでさ、でもスピリチュアリズムのこと知ったら、そういう世の中のこと人生のことの答えが書かれてんだよね」

萩原朔太郎の弟子を自認していた私は、
哲学に造詣が深かった朔太郎の影響で、
そのうち哲学も勉強しようかと思っていたのですが、
その友人のその言葉がとても印象的で、
哲学のほうには行かずにスピリチュアルのことをその後自分でも探り始めました。
それと時を同じくして、
テレビでは「オーラの泉」がブームになっていました。

それからの数年、
私は今思うとちょっと恥ずかしくらいにスピリチュアルの「かぶれ」になってしまい、
ブログでそういう方面の記事を発信したりなど、
そっち方向に突っ走る数年が続きました。

それからゆっくり落ち着いていって、
今はもうほとんどスピリチュアルのことを口にしたり書いたりはしていません。

ですが、
正直なところは今も世の中のこと人生のことを考えるときの自分の背後にある指針はスピリチュアルだと感じています。
神秘体験のようなものもある時期集中的に経験しました。

私は過去二十年、
とっても断続的ですが執筆活動をし、
純文学系の文学賞受賞→作家としてメジャーコースでデビュー、という目標に狙いを定めて小説を書いていますが、
思うに純文学って、
スピリチュアルか哲学かで考えたら、
哲学のスパイスが多少でも効いた作品の歴史のように思います。
私は基本にあるのがスピリチュアルで、
スピリチュアルが大っぴらに小説のテーマにはなってませんが、
どこかで哲学的態度を軽視しているせいで、
純文学の流れに沿った小説が書けていない、
それで目下のところ小説が認められていない、
なのかなあ、
って思っています。

詩というのは、
その生成の過程がとってもスピリチュアルだと思います。
だからやっぱり自分には詩のほうが合ってるのかなあと。
純文学小説って、
美学と、哲学と、政治のブレンドですね。
自分、
合ってないのかもしれません。

哲学のほうには行かないと言いましたが、
プラトン、ニーチェなどのことは気になってはいます。

スピリチュアルが大々的に反映された小説というと、
まあファンタジー系になるのでしょうが、
そういうのは自分書けないですね。

何か良い方法ないかな。


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