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祖父の思いっきりの良さ

まえがきbyアラフィフ娘
今回は母の疎開時代の父、つまり私の祖父の話が出てきます。祖父は私が小さい時に亡くなったので、思い出はほとんどないのですが、抱っこしてもらった記憶だけあります。
今回、話を聞き、母の器用さ、思いっきりの良さ、先見の明は祖父譲りなのかな?と思いました。残念ながら私にはその血は受け継がれていないようですが、小さいころなぜだか神社仏閣が好きだった私。通ったのが新宿区の赤城神社内の幼稚園だったこともあるのかもしれないけど、自転車で近所のお寺に一人で遊びに行っていたかなり粋な?マイナーな?小学生でした。これは祖父の影響なのかな?
にしても、あの時に抱っこした孫がまさかヨーロッパに住むなんておじいちゃんは考えもしなかったでしょうね。
あれ?思いっきりの良さはやっぱり引き継いでいるかも?

第2話は母の疎開先での話です。

疎開した先は父方の姉の家だった。母屋があり、その隣が納屋(物置き)で中に入ると入り口の右側が牛小屋となっていて、反対の壁側に竹で40センチほどの高さで底上げされ、六畳一間のみの部屋が作られていた。一か所の壁の他は母のタンス2つで囲われ仕切られただけであった。私たちは土間で煮炊きをして毎日すいとんやおじやを食べ、母屋の姉の家で男は食べるから、父は食い扶持が助かるだろうと毎日ごちそうになっていた。女学校に通っていた一番上の姉が学校をやめて田舎に来て、学童疎開をしていた2番目の姉も帰っていて、6人(+生まれてくる赤子)でその6帖間での寝起きする生活が始まった。

納屋には農機具やわらなどが積みかさてあり、ガサゴソガサゴソ、ドスンと牛が壁にぶつかる音が一晩中続き家畜のにおいもあったが、それもすぐに慣れる子供心には苦痛を感じることはなかった。

母屋には父の姉のおばちゃんと夫のおじちゃん、成人した息子とその下に娘がいた。おじちゃんは喘息持ちで、ほとんど寝ていて時々縁側に出ては日向ぼっこをして、口も開かず静かで穏やかな人だった。が、反対におばあちゃんは、東京っ子の私達に栃木弁が通じないことも多く、常に大声で怒鳴って男勝りであった。
息子はお百姓をしていて牛の世話もしていた。当時二十歳ぐらいになっていた娘のトキちゃんは結城紬の機織りをしてて、口数も少なく朝から夜までパタンパタンギ―と手と足が交互に動くのを不思議に見ていた。

私の父について話すと
3月10日の東京大空襲で壊滅状態になる迄、父は日本電気の工場長でそこそこの生活をし、お金も残していたようだった。が、東京での暮らしに恐怖を感じたある日、母に相談もなく日本電気をぱっと退職してしまったのだ。

そんな父は最初から会社勤務をしていたわけではなかった。
戦前の義務教育は6年で13才位で小僧に出るのは当たり前の時代。父は品川区大井の石材店で働き出し、神社仏閣の門前にある狛犬やら記念碑、石塔、石仏に至るまで石で掘っては納める仕事をしていた。我が家にも一体の観音様が祭られていた。
が、昔の職人は雨が降れば休みの職場でもあり、母と結婚したころは収入が不安定であったため、親戚の紹介で日本電気へ就職した。
やっと生活の安定を得たのに突然辞めてしまうとは…
思いっきりが良いというか、大空襲が相当怖かったのか。。。

また父がなぜ戦争に行かなかったのか。
それは兵隊検査の折、偏平足(土踏まずがない足では長時間歩けない)で、不合格となっていたのであった。当時の働き盛りの成人男性が戦争に行けなかったのはどんな気持ちだったのだろうか。。。

さて、東京の恐怖の生活からは逃げられたが、疎開に来ても、食べ物は相変わらず不足で、母屋の農作業を手伝っては大根の葉や捨てるような芋、または配給品で賄っていた。またお金で食糧を買うことも出来ず、年中お腹を空かせていた。

そんな毎日に嫌気がさしたのか、疎開して恥を失った父がまたある日ぱっと立ち上がった。

昔取った杵柄とでも申しましょうか。
父は突然宇都宮の先にある大屋に行き、トラック一台分の大谷石を買い、近くの山林の一角で石工の仕事を始めた。何を作っていたかというと簡単に出来るかまど(へっつい)を作った。

これがなんと農家の台所で大当たり!
報酬は現金ではなかったが、田舎だったので米で支払われた。
今ならこれでやっとお腹いっぱいお米が食べられるはず。
だが、当時の生活では貴重な米のご飯は食べさせてもらえなかった。

米は女学校をやめて14歳になっていた長女の姉が担ぎ屋(戦後、米など続制物資をひそかに運んで売る人)となり、品川の親戚へ持って行き、売ってもらっていた。
7升(約10キロ)の米を背負って、毎日一里(4キロ)の道を徒歩で往復すると一側の下駄は歯がすり減り、板に鼻緒が付いているだけで一か月しかもたなかったそうだ。
あの当時の生活のどの場面を思い返しても、今ではとても想像もつかない毎日だったが、他に生きていく方法はなく、戦後はこのような苦労をしていた家庭がほとんどだった。

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