なんでポケットにじゃがいもが入ってんねん?
昨日の友人が、私に腕時計をプレゼントしてくれた。某国産ブランドの高級時計らしい。私は、この時計なら250万円で売れるぞ、とはしゃいで、もらったばかりのその時計を持って質屋に行こうとする。奥さんは、某国産ブランドの時計にそんな高値がつく訳がないと思ったが、口には出さなかった。
以上が、奥さんが今朝見た夢の内容らしい。私が友人から腕時計を貰うのも彼女の夢、その時計を私が質屋に持って行こうとしたのも彼女の夢である。
昨晩、私宛に届いた葉書を送ってくれた友人が、その夜の奥さんの夢に登場するとは奇妙な偶然である。それより解せないのは、彼女が見た夢の内容である。いくら吝嗇家の私でも、さすがに戴きものをすぐさま売り払うような真似はしない。私のことをどれだけ金に意地汚い男だと思っているのか、、
風邪がぶり返して体調がよろしくない。ジムには行かず、かといって他に何をする気にもならず、積読していた木原善彦の『実験する小説たち』をパラパラと読み始める。表現方法が特異な、いわゆる「実験小説」「実験的な小説」と呼ばれる小説は、伝統的な小説と何が異なるのか。著者は、ジョイス『ユリシーズ』第四章を引きながら次のように解説する。
伝統的な小説の語りが上手な落語家のようにうまく間を取りながら、笑える部分や泣ける部分を目配せしてくれるのと対照的に、『ユリシーズ』みたいな小説は、突っ込みのいないぼけだけの漫才に似ています。ですから、読者は漫然と話をたどるのではなく、自ら突っ込み役となり、要所要所で突っ込まなければ作品の面白さを充分に味わうことができません。やや大げさに言うなら、「なんでポケットにじゃがいもが入ってんねん?」「”反射”か”屈折”か分からへんのかい!」「”5フィート9インチ半”って細かすぎるやろ!」などと考えながら読むべきだ、というわけです。
木原善彦(著)『実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で』彩流社,P.32
『ユリシーズ』第四章の文章を読むと、後半の「やや大げさに言うなら」以降の数々の突っ込みが的確過ぎて笑える。実験小説かどうかを問わず、小説は心のなかで突っ込みながら読むのが面白いと思う。夏目漱石の『吾輩は猫である』などは突っ込みどころが多すぎて、ぐったりしますがね。それにしても、関西弁は文字にするとおかしみが増すような気がする。著者は関西の出身かと思い調べてみると、出身は不明なものの現在は大阪大学の先生のようで、トマス・ピンチョンやリチャード・パワーズなどのアメリカ文学の翻訳をされている。
そのあと、TSUTAYAからDVD借りっぱなしの映画『ゼイリブ』を観始める。
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