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勝者のように見えた、敗者ではなく

ナショナルジオグラフィックの今月号に、ハゴロモインコの写真が見開きで載っている。鳥はこちらに背を向けて、翼を大きく広げている。その羽は、赤、黄、緑、青、色とりどりに彩られ、その後ろ姿は大変美しい。webで検索してみるが、この写真ほど、彼らの華やかな姿を堪能できる画像は見つからない。

ハゴロモインコの写真がもっと見たくなり、蔦屋書店で鳥の図鑑などを探してみるが、書店の動物コーナー自体がいつの間にかなくなっていた。ハゴロモインコは諦め、併設のスタバで読書する。先日の山形旅行以来のダンテ『神曲』。地獄編第15歌まで読む。

第15歌で、ダンテは第七の最後の谷を訪れる。そこでは生前、男色の罪を犯した魂たちが、火の雨の中を延々と歩き続ける罰に苛まれている。当時の西欧キリスト教社会において、同性愛は大罪だった。ダンテは、焼け爛れた魂の群れの中に、かつての師、ブルネットの姿を認めて驚愕する。後世に残る優れた書物を残し、人格者で、高潔な生き方を彼に教え示してくれたかつての恩師が、天国や煉獄ではなく、地獄にいることに衝撃を隠せない。ブルネットは生前、唯一この罪だけを悔い改めることがなかったために、この地獄に墜ちたのだった。

ブルネットは、かつての弟子に自分と同じ轍を踏ませまいと、自ら進んで恥を晒し、彼の反面教師になろうとする。同じ轍とは、男色の罪を犯すことだけを意味しない。訳者の解説によると、教師が生徒に良き生き方の模範を説きながら、えてして教師自身がその模範どおりの生き方をしていない、その過ちを示しているという。

教える側は確信と感動を以て教えてはいても、その教えが完全に自分の中にまで浸透しているとは限らない。教える者は、教師としての性分からどこまでも教えようとするが、自身を顧みることにおいて自分自身がエアーポケットとなっていることが多い。自分の外を照らすことばかりに気を取られ、自分を照らすことを忘れてしまう。つまり、これが師と弟子が共有した過ちである。

ダンテ (著), 須賀敦子 (訳), 藤谷道夫 (訳)『神曲 地獄篇: 第1歌~第17歌 (須賀敦子の本棚 1)』河出書房新社,p.375

大変耳が痛い。ブルネットは、この『神曲』を著することによって、読者たちに良き生き方を伝えようと試みる新たな教師、つまりダンテに対し、自分と同じような教師の過ちは犯すなと助言し、励ましているのである。師弟愛溢れる最後の詩行に、思わずぐっとくる。

 もっと話したいが、共に歩むも共に語らうも、
もはやこれまでだ。というのも
向こうの熱砂から新たな砂煙が見えるからだ。
 私がともにいるべきでない人たちがやってくる。
わが『宝典』をよろしく頼む。
その中で私はまだ生きている。もはや頼むものは何もない」

 こう言い残して、後ろを向いて去って行ったが、
その(走りゆく)姿は、ヴェローナの野で緑の優勝旗を
競っている人たちのように見えた。その中でも
 勝者のように見えた、敗者ではなく。

ダンテ (著), 須賀敦子 (訳), 藤谷道夫 (訳)『神曲 地獄篇: 第1歌~第17歌 (須賀敦子の本棚 1)』河出書房新社,p.352 第15歌,115行-124行

そのあとは、阿久津隆の『読書の日記』やヴァージニア・ウルフの『』をほんの少し読む。一緒に来た奥さんの読書がちょうどきりよくなったところで、店を後にする。昼間の曇り空の下、自転車を手で押しながら、並んで歩いて帰る。彼女が読んでいた原田マハの『暗幕のゲルニカ』も面白そうだった。

夜は家でもつ鍋を食べ、日記を書き上げ、そのあとジム。再びヴァージニア・ウルフの『』。相変わらず、登場人物たち6人の独白が交互に続く。三幕目を迎え、6人は20歳前後の若者に成長。登場人物たちが各々の独白の中でお互いについて言及する頻度が高くなり、バラバラだったはずの6人の自我が、ゆるゆると輪の様に繋がっていくような感覚がある。その輪の真ん中には、6人の独白の中だけに登場する7人目の男が存在する。あるいは存在しないのかもしれない。ドーナッツの中心のように。

風呂上りに体重計に乗り、顔色が青ざめる。そのあと、SmartNewsのトップに並ぶ記事を確認する。

・ブロック塀が崩れ撤去作業中の作業員死亡(関西テレビ)
・「着陸に成功したらパイロット職くれる?」緊迫の通信内容(FNN.jp)
・アーバンホテル、京都に2店舗 宿泊主体型、新規に(京都新聞)

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