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イエス・キリスト像の顔が白かったんだ

雨の信号を待ちながら、昔の知り合いの姿を見つける。あ、あの人だと気が付いたとき、彼は傘もささずに横断歩道の向こう側を走り去っていた。

帰りの電車で、ヴォルテールの『寛容論』の続きを読む。(当時の18世紀半ばの)フランス国民の宗教的不寛容を強調するため、フランス以外の国々が宗教的にいかに寛容だったかを示す事例を列挙する。日本も引き合いに出している。

日本人は、全人類のうちでもっとも寛容な国民であった。その帝国では、十二の穏和な宗教が定着していた。そこへイエズス会士が来て、十三番目の宗派を形成した。ところが、この宗派は自分たち以外の宗教を認めたがらない。その結果はみなさんご存じのとおり。わが国でカトリック同盟が起こした内乱に劣らぬほどの恐ろしい内乱が日本で起き[島原の乱]、その国を荒廃させた。しかも、キリスト教は血の海で溺れ死んだ。日本人はかれらの帝国を外の世界にたいして封鎖した。われわれは日本人から凶暴な獣みたいに見られてしまうようになった。思えば、われわれはイギリス人によって獣あつかいされ、ブリテン島から追い出された連中と似たような目にあっている。財務大臣コルベールは、日本人がわが国にとって必要な存在であると感じていたのに、日本人はわれわれを少しも必要としていなかったため、あちらの帝国との通商関係をうちたてようという企ては失敗に終わった。コルベールは日本人の意志の固さを思い知らされた。

ヴォルテール (著), 斉藤悦則 (訳)『寛容論(光文社古典新訳文庫)』[Kindle版]光文社,Kindleの位置No.467-474

全人類のうちでもっとも寛容な国民でしょうか、日本人は。比較対象の持ち上げ方がオーバーだったり、我田引水な解釈がちらほらある。その決めつけはどうかな、と思われる差別的な物言いも多く、読んでいて肝を冷やす場面もある。もちろんヴォルテールとは生きている時代が違うし、共有する価値観も異なる。多少の違和感はあるでしょう。そんなことを、自分に言い聞かせる。

続いて彼は、過去のローマ帝国がいかに宗教的に寛容だったかを説く。そのなかで彼は、自身の主張と相反する(と思しき)同時代のキリスト教徒の殉教者の事例に対し、先回りして釘を刺している。

 目に見える原因にも、しばしばたくさんの見えざる原因が混じっている。ひとりの人間が迫害されるときにも、じつはたくさんの隠れた反発心が重なって働いている。したがって、きわめて著名な人物を襲った不幸についてでさえ、何世紀もたってからその隠れた原因を解明するのは、とうてい不可能である。ましてや、その宗派のひとびとのあいだでしか知られていない一個人が極刑に処せられた原因については、なおさらだろう。

 グレゴリオス・タウマトゥルゴスや、アレキサンドリア司教の聖ディオニュシオスは、聖キプリアヌスと同じ時代の聖人であるのに、まったく拷問などは受けなかった。そこに注目してほしい。この二人は、カルタゴの司教よりも無名であったはずがないのに、なぜ無事でいられたのか。また反対に、なぜ聖キプリアヌスは極刑に処せられたのか。どうやらそれは、後者のばあいは、かれを個人的に敵視する有力者が、世間的な非難や国家的な理由をしばしば宗教にかこつけてかれを押しつぶしたのにたいして、前者のばあいは幸運にもひとびとの悪意をまぬがれたからではないのか。

同上,Kindleの位置No.855-859

 宗教が原因のように見える事件にも、それ以外の世俗的な原因が混じっていることがある。ヴォルテールが批難する当時のフランスの「宗教的不寛容」を象徴する数々の事件にも、もしかしたら同じことが言えたのではないか。彼の論旨にいまいち乗り切れない。乗り切れないのだが、それでも読み通すと、最後には、寛容さの比較が彼の本旨ではなかったことに気が付く。

われわれはいまでもときおり、ポワトゥ、ヴィヴァレ、ヴァランス、モントーバンなどの地方で、運の悪い人間をつかまえて絞首台に送っている。一七四五年以来、われわれは「福音の伝達者」あるいは「説教師」と呼ばれる者たちを八人、絞首刑にした。かれらが犯した罪というのは、国王のために神に祈るときその地方の方言を使ったこととか、一部の愚かな農民に一滴のワインと発酵したパンをあたえたことにすぎない。<中略>

 プロテスタントの国で、カトリックの司祭をそんなふうに処罰する国はひとつもない。イギリスとアイルランドには、カトリックの司祭が百人以上おり、そのことは誰でも承知しているし、先の戦争[七年戦争]のときでさえ、かれらは平穏無事に暮らすことができた。

 われわれフランス人は、ほかの国民がもっている健全な意見をいつも一番最後にしか受けいれられない国民なのだろうか。ほかの国民はすでにあやまりを正した。われわれは一体いつ、あやまりを正すのであろうか。ニュートンがすでに証明した法則を、受けいれるまでにわれわれは六十年かかった。種痘によって子どもの命を救う手立てを、われわれはこのごろようやく実施し始めたばかりだ。農業の正しい諸原理を実行に移したのも、つい最近でしかない。では、われわれがヒューマニズムの健全な諸原理を実行し始めるのはいつだろうか。また、われわれはかつて異教徒を残忍に殺害してきたのに、キリスト教徒の殉教をもちだして異教徒を非難するのは、あまりにも厚かましいのではないか。

 かりに、ローマ人が、ただ信仰のみを理由に多数のキリスト教徒を殺したとしよう。それが事実であれば、ローマ人は大いに非難されるべきである。それとも、われわれも同じような不正義を犯してローマ人と張り合うべきなのだろうか。また、異教徒を迫害したひとびとを非難するわれわれ自身が、はたして迫害者であっていいのだろうか。

同上,Kindleの位置No.976-992

夕食後、近所のドラッグストアに行って、奥さんの買い物を待つ間、店内備え付けの血管年齢・ストレス測定器を使ってみる。結果、血管循環良し、肉体・精神ストレスは少なく、健康状態は良好、とこの上もない測定結果が表示されるが、なぜか血管年齢だけが実年齢より5歳上で、一体どういうことかと思った。

その後ジムに行って読書。中村寛『残響のハーレム』の続きを読む。第2章から登場するアリと著者のやりとりが良い。ぐっとくる。なんでこんな良い本に、アマゾンのカスタマーレビューが一つもないんだと思う。

アリはかつて、ダイヤモンドなどの取り引きを手掛け、大金を所持していた。高級アパートメントに暮らし、高価なスーツに身を包み、高級車に乗っていたという。だから、お金次第で、周囲の人の対応がどれほど変化するかを熟知している。<中略>

 「飛行機のファースト・クラスにも乗ったことがあったな。フライト・アテンダントが、食事はなにがいいかって訊いてきたから、俺は野菜しか食べないって答えたんだ。そしたら、まえもって言ってくれたらベジタリアン・フードが用意できたけど、ないので自分がなにかつくってくる、もう少し待って欲しいって言うんだ。それで俺は、いまは勉強したいし、食事はいらないから、飲み物だけもらうって言ったんだ。そしたら、そのやり取りを聞いていた隣の白人が『宗教的な理由で野菜しか食べないのですか』って訊いてきた。だから俺は『健康のために野菜しかとらない」って答えた。彼は、なんでこんなところにいい時計をした黒人が座っているのか、不思議だったに違いねえ。しばらく話をしたあと彼は、『いい時計ですね。おいくらでしたか?』って訊くんだ。だけどそんなことは、そいつの知ったこっちゃねえだろ。個人的なことだ。それで俺は、『もらいものだからわかりませんが、一万ドルくらいだと思います』って答えた。そしたら今度は奴は、どんな仕事をしているのかって訊いてくる。だから、ドラッグ・ディーラーだって言ってやった。奴は『そうですか』って言ったきり、到着するまで一言も話さなくなった。そいつが聞きたがってた答えを与えてやったんでだよ」
アリはそう言って微笑んだ。

中村寛『残響のハーレム』共和国,P.107-108
ムスリムになるまえから、あることがいつも気になってたんだ―アリは語りはじめた。レッスンの帰り道だった。
 幼い頃、敬虔なキリスト教徒である母親に連れられて教会に行ったアリは、白人の顔をした天使の絵が教会中の壁に描かれているのを眼にしたのだという。そしてそのあとすぐ、白人の顔をしているのが、あたり一面に描かれている天使だけではないことに気づく。
「イエス・キリスト像の顔が白かったんだ」
 アリは、いつもよりゆっくりとした調子で言った。かつて見た光景を思い出そうとしているようだった。
「その教会の神父も白人だった。だけど、ふと気づくと、説教を聞きにきてる奴らはみんな黒人だったんだ。俺は、『待てよ、この構図はなにかがおかしいぞ』って思った。それで俺は、隣にいた母親に質問したんだ。『ママ、ママ、僕たちの神はどこ?僕たちの神はどこにいるの?』ってな」
 アリの母親はその場では質問に答えず、ただ「静かにしなさい」と言うだけだった。アリはそれでも母親にむかってしつもんをつづけた。
「最後には母親は怒ってたよ。」
その夜、アリは教会で眼にしたことを父親に語った。
「見たことについて話すと、父親は『おまえ、自分のコートを取っておいで』って言って、夜だったのに俺をブルックリンにある別の教会に連れていったんだ。そこには、黒人のキリスト像や黒人の姿をした天使の壁画があって、近くには『ただ私たちが黒人だという理由で見下すな』といった言葉が書かれてた」
 やがてアリは青年になり、ネイションの教義に同調するようになる。しかしアリは、自分が宗教に傾倒し、祈りに救いを求めたことは一度もないという。

同上,P.109-110

中学高校の6年間、クリスチャンの学校に通っていた。思い出してみると、教室の黒板の上に飾られた小さな十字架のキリストは、たしかに白人の顔をしていた。思い出すまで、意識したことさえなかった。

寝る前に、阿久津隆の『読書の日記』を少しだけ読む。2016年の年の瀬の頃の日記で、年末年始の間に読むつもりの本を延々と吟味していた。

SmartNewsのトップ画面に並んでいた記事。

・7日 強い台風 関東は接近前から大雨(tenki.jp)
・麻雀を「夢ある世界」に脱皮させる深い仕掛け(東洋経済オンライン)
・タンクローリーが大爆発 道路一部崩落も イタリア(テレ朝news)

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