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野良猫

たしか曇り。

夜、奥さんと近所を散歩。路地裏に寄ると、あの野良猫がとある民家の玄関前に座っている。目つきがとろんとしている。近づくと、いつものように逃げ出さない。あれ、もしかして今日は触れても大丈夫か、と思い彼女が猫に手を伸ばそうとすると、猫の後ろにある民家の玄関、それはガラス戸なのだが、その戸の向こう側の闇に人影が蠢く。民家の家人がガラス戸越しに、こちらの様子を伺っている気配。自分の家の玄関の前に佇む私たち二人の影を、おそらく不審に思っているのだろう。その影がこちら側に迫ってきて、玄関の戸を開けようとするその瞬間、二人してその場を逃げ出した。

散歩の帰り、再び路地裏に行くと、さきほどの民家の前に野良猫の姿はない。路地のさらに奥に進むと、野良猫と、野良猫にそっくりな猫がもう1匹いた。我々が近づくと、2匹とも民家と民家の狭い隙間にさっと逃げて行った。猫を手懐けるのは難しい。

帰宅して、今日はもうこのまま寝てしまうおうかと思いながらベッドの上でTwitterのタイムラインを眺めていると、あと数分でNHKのEテレで『100分DE名著』が始まることを知る。今月はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』。あ、これ視聴しようと思って急いでジムに行く。トレーニングマシン備え付けのテレビで番組を見る。

人間にとって「知とは何か?」「言語とは何か?」「政治とは何か?」……数多くの根源的な問いを投げかけ、全世界で5500万部を超えるベストセラーを記録した一冊の小説があります。「薔薇の名前」。世界的な記号学者ウンベルト・エーコ(1932- 2016)によって書かれた推理小説です。人間がいかに「言語」によって翻弄される存在なのか、人間の「知」や「理性」がいかに脆弱なものなのかを、克明な人物描写、巧みな古典の引用を通して見事に描き出したこの作品から、現代人にも通じるさまざまな問題を読み解いていきます。

物語の舞台は14世紀初頭。対立する教皇側と皇帝側の間を調停するための密使として北イタリアの修道院に派遣される修道士ウィリアムと見習いアドソ。到着早々、彼らは謎の連続殺人事件に遭遇し修道院長に事件解決を依頼されます。遺体発見の場は「ヨハネの黙示録」に描かれた世界終末の描写と酷似。持ち前の論理的な思考を駆使して推理を続けるウィリアムはやがて修道院内の図書館の奥に納められている一冊の本が事件の鍵を握っていることに気づきます。一体誰が何のために殺人を行っているのか? 一冊の本に秘められた謎とは? 果たしてウィリアムはその謎を解くことができるのか?

番組HP・『プロデューサーAのおもわく。』より

探偵役の修道士「バスカヴィルのウィリアム」の「バスカヴィル」はシャーロック・ホームズシリーズの『バスカヴィル家の犬』(1901)から、見習いアドソはイタリア語で「ワトソン」。つまり、シャーロック・ホームズのパスティーシュ。ホームズとワトソンが、14世紀イタリア、世界一の蔵書をほこる修道院の図書館で、次々起こる不可解な連続殺人事件の謎を解く、というのが本筋らしく、面白そうじゃないか。そして、本作のテーマは「笑い」とのこと。気になる。。番組の要所要所で挿入される映画版の映像もすごい。薄暗くて荘厳な修道院の雰囲気が驚くほどリアル。著者のウンベルト・エーコーは哲学者、記号学者として有名だが、一時期、イタリアの国営放送で教養番組の制作もしていたとか。どのような番組を制作していたのだろうか。今回は、3人目の殺人が起きたところで、幕切れ。続きは次回、来週。

番組視聴後は、トレーニングを続けながら『ミメーシス』を読む。タキトゥスの『年代記』、ゲルマンの諸軍団の暴動の開始を述べたくだりの文章が丸々引用されていて、その活き活きとした描写に驚く。タキトゥスといえば古代ローマの歴史家、高校の世界史の授業で暗記すべき名前の一つ以上のものではなく、その彼が書いた歴史書となればどうせ堅苦しくて読み難い文章だろうと高をくくっていた。そのリーダビリティの高さは、まったくの意想外だった。

著者は次に、修辞的/道徳的なタキトゥスの文章の対照として、新約のペテロの否認の場面を引用する。イエスに、おまえは鶏が鳴く前に3回、私のことを知らないと言うだろうと予言されて、そんな馬鹿な、と思ったペテロが、その後イエスが警察に逮捕されたとき、予言通り、三回、イエスとの関係を否認してしまう話。映画『哭声/コクソン』の印象が強烈だったこともあり、なぜか忘れられない挿話の一つ。

彼は自分の家と仕事をすて、主に従ってエルサレムまでやってきた。彼はまっさきにイエスをメシアと認めた。破局がやってきたとき、彼は他の誰よりも勇敢であり、抵抗を試みようとする者たちにみずからも加わったばかりか、期待していた奇蹟が起こらなかったときも、彼はイエスのあとに従おうとする態度さえみせたのである。しかしながらそれは、おそらくは、それによってメシアが敵をうちのめすであろう奇蹟が、ひょっとするとまだ起るかも知れないという、惑乱した期待に動かされて、中途半端に、おっかなびっくり試みたというにすぎなかった。そして、イエスのあとに従おうとする彼の試みが、中途半端な、疑念に満ちた、小心翼々たる試みであったがゆえに、彼は他の、少なくともイエスを公然と否認する機会をもたなかった者たちよりも、いっそう深みに堕ちたのである。彼の信仰は篤かったが、それでもまだ充分篤いとはいえなかったために、最悪のことが彼の身に起こったのである。それはどんなに熱烈な信者にも起こりうるものだ。彼は己れの悲惨な生におののく。しかし、この恐ろしい内的経験から、新たな振子の振動が生じたことは絶対まちがいない――しかも今度は反対側にむかって、ずっと強烈に。彼の絶望的な挫折に対する絶望と悔悛は、キリスト教の確立に決定的に寄与することになったかずかずのヴィジョンを準備した。この経験を通してはじめてキリストの出現と受難の意味がペテロに開示されたのである。 

 こういった素性をもつ悲劇的人物、こういった弱点のある主役(もっとも、ほかならぬその弱点から至高の力をひきだすわけだが)、こういった振子の往復運動は、古典古代文学の崇高な文体とは相容れないものだ。それにまた、そういった葛藤の在り方や舞台も、完全に古典古代の枠から外れている。外見的にはそこで扱われているのは警察沙汰とその成り行きであって、その種のことは古代なら茶番か喜劇としてしか考えられなかった。しかしそれならなぜそれは茶番でも喜劇でもないのか?なぜそれはきわめて厳粛な、きわめて重大な共感をよびさますのか?そのわけは、それが古代の詩歌も古代の修史も決して描くことのなかったあるものを、すなわち、同時代の日常的な事件が、古代文学においてはついぞ持ちえなかった意味を持つにいたるからである。

E・アウエルバッハ(著)篠田一士・川村二郎(訳)『ミメーシス 上 ヨーロッパ文学における現実描写』筑摩書房,p.84-85

日常的な事件に象徴的な意味を与える。それが当たり前ではなかったことが新鮮。それなしでは、現代の小説のほとんどは成立しなくなるな。。しかしそれだけでは、なぜこうした挿話が、不可解ながらも読み手の心に強い印象を残すのか、謎が解けたような、解けないような。世の中には、不可解ゆえに惹かれないものと、不可解ながら惹かれてしまうものの二つつがあるような気がして、その二つの違いって何だろうと思う。

SmartNewsのトップに並んだ記事。

・ダイソー「偽カッター」に本物混じる…自主回収(読売新聞)
・ブラジル国立博物館で火災 大統領「悲劇的な日」(朝日新聞)
・火災:国の伝統的建造物が全焼 大阪・富田林(毎日新聞)

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