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人間はつねに何らかの束縛を必要としてきた

盆が明けて、夏が終わる。秋の爽やかな空気。

空き巣被害の同僚から続報。彼の部屋のベランダの手すりの上に、犯人の足跡が見つかったという。刑事三人が部屋を捜査。ブラックライトを照らすと、近隣の空き巣被害者宅で発見した足跡と同じものがそこに浮かび上がったという。

足跡を発見した瞬間を勝手に想像する。犯行の手がかりに興奮する刑事たち。認めたくない現実を目の前に突き出された同僚。貴重な経験にはなったよ、刑事の現場捜査に立ち会うことなんて滅多にないからね。捜査の様子を思い出す彼の表情は渋い。警察による犯人捜査は続く。

昼、ドトールでヴォルテール『寛容論』の続き。たとえ話や事例の引用の仕方が面白い。寛容は大事である。ただそれだけのことを読者に伝えるために、彼は手を変え品を変える労力を惜しまない。引き出しの多さ。伝えようとする彼の情熱は本物。極論に走ったり、煽情的な言い回しで読者をたきつけようとすることもあるが、全ては、彼のサービス精神が成せる産物のように感じる。同時に、彼が本気で当時のフランス社会を憂いていることも伝わってくる。

時折、辛辣な言葉の陰に、温かな人間愛を感じることがある。例えば、次のような文章。

人間はつねに何らかの束縛を必要としてきた。そして、半獣神や森の精や水の精にいけにえをささげるのはどれだけバカげたことであろうと、こうした幻想的な神の姿をあがめることのほうが、無神論に身をゆだねるよりも、はるかに筋がとおり、しかも有益なことであった。理屈好きで乱暴で腕っぷしの強い無神論者というのは、血を見たがる迷信家と同じくらい、有害な厄介者である。

ヴォルテール (著), 斉藤悦則 (訳)『寛容論(光文社古典新訳文庫)』[Kindle版]光文社,Kindleの位置No.1757

迷信の愚かさを批難するのは容易い。彼は、迷信による非寛容は批判するが、迷信する人間の弱さは肯定している。そこに彼の優しさを見る。

とはいえ、後に続く次のような言い回しが、余計な炎上を煽っているような気がしないでもない。

迷信と宗教の関係は、星占いと天文学の関係にひとしい。迷信と占星術は、どちらもそれぞれ賢明な母親から生まれたきわめて愚かな娘にほかならない。しかし、この二人の娘が長いあいだ地球全体を支配してきたのである。

同上,Kindleの位置No.1767

もし彼が現代に生きていたら、炎上上等の社会派ブロガーとして名を馳せていたかもしれない。

帰宅すると、古書店から郵送されたヴァージニア・ウルフ『』が届いていた。Amazon中古の販売価格が5万円だったため、手元に置くことは半ば諦めていたところ、奥さんが定価以下の値段で販売する古書店のwebサイトを探してくれていた。届いた本は薄紙で丁寧に包装してあり、想像以上に綺麗な状態。大事に本棚にしまう。

夕食に蕎麦、とろろ、おくら。その後、蔦屋書店併設のスタバで奥さんと読書。レイナルド・アレナスの『襲撃』を読み始める。架空の全体主義国家が舞台で、独裁者「超厳師」が人々の日常の細部に至るまで徹底的に管理している。人々は家畜同然、いや家畜そのものの扱いを受けおり、自らの発言や行動、さらには記憶や意志の自由まで禁じられたまま、強制労働に奉仕している。主人公は、人々の「囁き」を取り締まり、違反者を密告し抹消する「囁き」取締員。つまり権力側の人間。彼の母親に対する凄まじい殺意から物語が始まる。主人公は、母親を探す。「囁き」取締員として行く先々の人々を躊躇いなく処刑しながら、地方を転々とする。

少年が抗弁する。素早く首を締め上げると、抗議の声は囁きに変わる。こいつ、まだ囁くつもりか······。殴りつけ蹴り飛ばしながら、首枷を付けさせたガキを最寄りの移動式独房まで引っ張って行き、鍵をかけ、外の黒板に俺の囁き取締員番号を書き込む。これで手柄を立てた英雄は俺だと分かる。

レイナルド·アレナス(著),山辺 弦 (訳)『襲撃』水声社,p.27

阿久津隆『読書の日記』の引用で読んだ文章が登場する。この本を手にしたのは、これほど人類に対する憎悪に満ちた文章を読んだことがなかったから。先鋭化した悪意が、善悪の彼岸を突破する。凄い。改めて読んでも。

手に持った棍棒で、常に違わず首筋のあたりに向って加えられるべき打撃の位置が確認される。まず初めに執行されるのは、これが一番見物なのだが、フェイントの打撃だ。打撃執行人役(俺も何度もやった)の者は棍棒を持ち上げ、十分勢いをつけるふりをして、罪人の頭蓋骨を叩き潰さんばかりに猛烈に振り下ろす、そして棍棒が脳味噌の中で炸裂せんとするその時、突然ふっと力を緩め、打つのを止めるのだ。執行人が猛烈なうなり声を上げて行われるこの行為は、三度繰り返される。周知の通りこれが象徴的打撃と呼ばれるもので、大衆への見せしめとしてなされるってわけだ。この三発の象徴的打撃が行われている間に、処刑執行まっ最中の生贄の顔を見てみるがいい。これがこの儀式の唯一面白いところなんだが、うなりを上げて振り下ろされる棍棒が、急に止まって脳をかすめる時の目や口やしかめ面といったら一見の価値ありだ。興味深いのは、棍棒が止められた時、間違いなく一撃を喰らうと思っていた当の生贄が、今にもやられる、という印象を拭いきれないことだ。しばらく間をおいてからやった、やられてないと分かったそいつは、驚きと恐怖と苦しみを露わにする。超絶厳師による発見と通達に従って、そうした三回の象徴的打撲が取り決められているのはそのためだ。処刑を待つ者の恐怖の表情を、皆が見ることが出来るようにするためなのだ。四発目、唯一本当の一撃の際には、恐怖の表現なんて存在しない。棒や棍棒、鉤爪や大鉤爪、鉄工具や留め金など、知ったこっちゃないが、それらが止まることなく、頭蓋骨を粉砕する。衝撃はもの凄く、生贄は苦痛を表す暇などない。それで終わり、わずかに足をばたつかせてくたばるのみだ。

レイナルド·アレナス(著),山辺 弦 (訳)『襲撃』水声社,p.65-66

読み続けるのが勿体ない感じがして、箸休めに、プルースト『失われたときを求めて』の続きを読む。かの有名なマドレーヌの挿話が登場する。

やがて私は、陰鬱だった一日の出来事と明日も悲しい思いをするだろうという見通しに打ちひしがれて、何の気なしに、マドレーヌのひと切れを柔らかくするために浸しておいた紅茶を一杯スプーンに口に運んだ。とまさに、お菓子のかけらのまじったひと口の紅茶が口蓋に触れた瞬間、私のなかで尋常でないことが起こっていることに気がつき、私は思わず身震いをした。ほかのものから隔絶した、えもいわれぬ快感が、原因のわからぬままに私のうちに行きわたったのである。

マルセル・プルースト (著), 高遠 弘美 (訳)『失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)』光文社,p.116

マドレーヌを口にした瞬間、突然、過去の思い出が蘇るくだりだと勝手に思い込んでいたが、語り手はなかなか過去を思い出さない。思い出すためにかなり苦労している。マドレーヌをもう一度口にする。至福感が先より薄れている。もう一度。もっと薄れている。駄目だこれは違う、原因はマドレーヌにあるのではなく、自分自身の中にあるに違いない。自身の内面に意識を集中してみる。駄目だ、何も浮かんでこない。最初の一口目のことを必死に思い出そうとしても駄目。今夜はもう駄目だ。追及は諦めて、ふつうにマドレーヌを味わうことにしよう······。そんなくだりを4頁も続け、ようやく、「そのとき突然、思い出が姿を現」すのだ。

ある行為をきっかけに、感覚や感情が蘇える。確かにあるような気がする。そのはじまりの記憶がなかなか思い出せなかったりすることも。人間の記憶を呼び覚ますメカニズムは不思議だ。語り手は直前で次のように語っている。

 私はケルトの信仰をきわめて理にかなったものだと思っている。誰かに死なれたとしよう。そうすると、死者の魂は何か下位の存在、獣や植物や無生物のなかに囚われる。彼らは、たまたま私たちがそうした木のそばを通りかかったり、彼らがそのなかに囚われている事物を手に入れたりする日(たいていの人にはそうした日は来ない)までは、私たちにとって亡くなったままだ。しかし、そのときになると、魂は打ち震え、私たちを呼ぶ。私たちが彼らを認めるや否や、呪縛は解かれる。私たちによって解き放たれた彼らは死に打ち勝ち、この世界に立ち返って私たちとともに暮らすことになる。
 私たちの過去もそれと同じである。

同上,p.115

眠気が襲いかかる。席を立って、蔦屋書店の棚の間をふらつく。多和田葉子の『百年の散歩』を手に取り、冒頭を少し立ち読みする。喫茶店に入る自分を海の魚に見立てている文章がおかしい。そのうち購入するだろう。

店に靴を踏み入れたトタン、中は深海、泳ぐようにゆっくりと両手を鰭にして動かしながら、首を左へ右へとまわして、あいている席を探し、そのまま一番奥にたどりついて二人がけの小さなテーブルを選んだ。

多和田葉子『百年の散歩』新潮社,冒頭の頁より

読書はそろそろ潮時か。席に戻るが、奥さんは奥さんの日記を書くのに夢中で、もう少し店にいたいと言う。再び席を立って、書店内をもう一度ふらつく。ふだんはあまり覗かない棚も、隈なく見てみる。ライフスタイルの棚にあった『最高に美しい住宅をつくる方法』を手に取る。ぱらぱらとめくり、住居の写真の数々に目がとまる。洒脱だが、現実の生活に根を下した気持ち良さがある。写真に添えられた住宅設計のノウハウも新鮮。席に持ち帰ってじっくり読む。家を建てる予定など全くないが、ぼんやり写真を眺めているだけで楽しい。途中で本を棚に戻し、店を後にする。

その後はジム。再びレイナルド・アレナスの『襲撃』。目が醒めてくる。全体殲滅刑という理不尽な刑の説明を読んで、呆れて笑ってしまう。いや、笑えない。

全体殲滅刑により有罪宣告された有罪人は有罪判決を受けて以降、宣告済みの者としても処刑済みの者としても、恥知らずの反逆者としても国敵としても存在しなくなる。そもそも存在すらしなくなるのだ。<中略>ある罪人に全体殲滅を実行するには、全体に及ぶ殲滅という名の通り、その家族全員、あらゆる知人、そして知人と思しき者たちを殲滅すること、また同様にその畜生がこの世に残したありとあらゆる自身のしるしや痕跡、書いた落書きや線などを殲滅しなくてはならない。そいつのことを覚えている者(探し出すための取締員には事欠かない)もまた全体殲滅を宣告されるし、そいつが存在したかどうか疑っている者もまたこの刑に値し処刑される。他ならぬ看守や処刑人も全体殲滅を宣告される、というのも罪人を知る鼠どもの仲間入りをしてしまうがゆえに連中もまた鼠として認定されるからであり、残った鼠どもを処刑するために選ばれたのでありながら、連中もまた新しく鼠となる者どもによって処刑されるってわけだ。時が経つにつれ次第にこうした過程は簡略化されてきている。自分の知る誰かがある日全体殲滅の宣告を受け、従ってそいつを知っている奴も同様に、どいう事態に恐れをなして、人はあらゆる種類の関係性や知り合いになる行為を、あらゆる種類の友情を避けているのだ。政府の指導もこの相互無視のプロセスを推奨している。ほとんど誰も、誰と一緒に仕事しているか知らないし、興味もない。複合家庭では皆が一緒くたに住んでいるが、お互いのことは知らない。誰も名前など持っていないし、あらゆる政府の指導はある奴が他の奴とそっくり同じであることを推奨し、それによって人が誰か特定の奴のことを思い出すことが出来ず、誰も記憶され得ず、またもし仮にある奴がもはや存在しないのだと告げられた場合でも、当の本人さえもそれは違うと証明することが出来ないようにしているのだ。

レイナルド·アレナス(著),山辺 弦 (訳)『襲撃』水声社,p.70-71

Louis Coleの新譜の一曲目をYoutubeで再生しながらランニング。蔦屋書店のCD試聴機で聴いて。本人による阿保らしく珍妙なステップが癖になり、動画再生を繰り返す。夜更けが過ぎる。

今朝SmartNewsのトップに並んだ記事。

・米歌手アレサ・フランクリンさん死去(共同通信)
・17日の天気 北は10月並み 南に台風(tenki.jp)
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