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「共有するもの」で繋がれる輪 『海のはじまり』第3話までを視聴して


"エンタメ"だからこそ託せるテーマ『海のはじまり』3話までの所感

『silent』のスタッフが再タッグを組んだフジテレビ月曜9時枠『海のはじまり』は、その肩書きだけで情報解禁段階からすでに話題を呼んでいた。


実際1話が始まってみると、オンライン上では想像以上に物議を醸していた。

開始1話からこの質量感。月曜9時といえば「夏!海!キラキラ!」世代ど真ん中世代だった自身としては確かに「重たい内容」であることは否めなかった。


中には「現実離れし過ぎている」「(古川琴音演じる)水季の行動はホラーに等しい」などかなり強い言葉が飛び交っていたが、3話まで観るとかなり印象も変わってくる

これは果たしてそこまで現実離れした話なのだろうか。
実際、現実に起こることは予期せぬことばかりだし、水季の選択も、実際当事者になってみたら、好きだからこそ、大切だからこそ全てを語らず自分自身で解決しようとしてしまうかもしれない。

脚本家の生方氏は「言葉」を作品の中で非常に慎重に扱っているが、本作においても繊細に紡がれている。彼女が作中で紡ぐ言葉は核心をつくものが多いが、その間合いであったり演者の視線の動きであったりで発された言葉に余白を持たせている。この余白が考える“隙”を我々に与える。


『視聴者のみなさんにとって、考える余白のある作品にしたいと思いました。そのために、今回は本編中でモノローグやナレーションを一切使っていません。セリフも「言わせ過ぎない」と「あえて言う」のバランスを大切にしています。』

引用:GINGER online


とインタビュー内で答えられているように、この作品や登場人物たちの選択をどう捉えるかは私たち視聴者の感性や体験に委ねられている。

今回の題材は、特に私たち世代にとっていつ誰にでも起こり得ても不思議ではない。他人事、フィクションとして割り切れない。

だからこそ、目を逸らしたくなる。「重いよね」と受け流したくなる。

前職は助産師というキャリアを持つ彼女だからこそ扱えるテーマであると感じたし、エンタメというコンテンツだからこそ、中絶や妊娠・出産に伴う責任など現代社会で向き合うべき課題の問題提起が可能となるのでは無いだろうかと、
第3話まで伴走してきた一視聴者としては感じた。

「人はいつどのように母になり、いつどのように父になるのか。」

『海のはじまり』公式HP

そして今回の第3話。この物語の根底のテーマとして掲げられているこのフレーズ。まだまだ物語半ばではあるが、第3話は少し本ドラマが掲げる命題の端緒となりえそうな回であった。



同じ哀しみや“繋がり”を「共有する者どうし」だけで創られる輪


海は他人である弥生にも懐き、いつ誰に対しても、無邪気で無垢な笑顔を顔いっぱいに広げて見せる。
3人で並んで歩く姿こそ“新しい家族”の形を体現できているように見えた。

けれどそれは、海が我慢を知ってしまっているからだった。

愛嬌たっぷりな面持ち、天真爛漫さは子どもらしく、大人たちを安心させてしまう。しかし周囲の顔を窺って自らの言動を客観視できてしまうほど理知的な少女だった。

担任から『海ちゃん、今日元気ないね』と声をかけられたとき、『今はママのこと考える時間。元気ないけど大丈夫』と返答したのには流石に震えた。この子は、周りに心配をかけないよう振る舞うべき姿を理解しているし、感情を自分で制御してしまえている。

そんな子ども離れしてしまっている海を、夏は見逃さなかった。

周りの大人も気づいていなかったわけではない。「泣く」という行為は、非常に疲れるものである。現実を受け止め直し、悲しみと向き合い、溢れ出ていく感情をただただ痛感しなければならないからだ。

けれど、それを口にするか否か、出来るかどうかはまた別の話だ。

大人だって自分自身の悲しみと向き合うことは辛い。だからこそ、通常大人は「感情を露わにして泣く=自ら苦しみの中に飛び込んでいくこと」、と考えるため、子どもが自ら苦しい方向へ行くのをできるだけ避けさせるために、良かれと思ってあやしたり本質からそらしたりする。

「がんばって元気にしてたんだよね、えらいよ」と褒めながらハンカチを差し出す弥生も、大人として正解の対応だったと思う。

けれど、口に出したのは夏だけだった。いや、正確には口に出せるのは父親である夏だけだった。

「なんで元気なふりするの?」
「悲しいもんは悲しいって吐き出さないと」

真っ直ぐ揺らぎのない瞳で語りかける夏の言葉を、7歳の海はどれだけ受け止めたのだろう。


小さな子どもになんて酷なことを、と自分をはじめ多くの視聴者はリアルタイムで観ながら一瞬感じただろうが、それはやはり海と自分自身の間に「共有するもの」が無いからなのだろう。

夏にはまだ父親としての自覚が芽生えてないが故に、ここまで“同じ目線”で語りかけられたのかもしれない。

ただ、水季という存在を失い、同じ悲しみを共有する者どうしだからか、血の繋がりを共有したたった一人の父親だからか、海は夏の胸で、初めて大粒の涙をこぼして感情を吐き出せた。それは初めて彼らが通じ合えた瞬間でもあった。


大人びて見えても、まだ小学一年生だ。無邪気でいる必要もないし、今悲しいことを「悲しい」、「辛い」と外に吐き出しておかなければ大人になった時、うまく気持ちを伝えられず苦しい思いをしてしまう。

“共有する者どうし”でしか分かち合えない悦びや悲しみがあるのかもしれない。

そんな「親子の絆」とも言える感動シーンの画角の外で、その輪から外れた者もいた。


父親である夏の元に駆け寄り、顔を埋めて初めてわんわんと子どもらしく泣けた2人の強い"繋がり"の美しさも映し出す反面、差し出したハンカチに目もくれず取り残される弥生の様子もこの物語ではとりこぼさない。



実力派女優としての実力を再確認させる、有村架純の“強さ”

最強の実力派で布陣が固められた本作だが、今回は有村架純演じる弥生から目が離せなかった。

不妊治療をしてまで授かった子を先に失った喪失感だけでもやりきれないのに、この7年を全く知らない見ず知らずの他人が、“私お母さんやれますって顔”(第3話台詞引用)で突然現れたら、本来そこに"いるはずだった"娘の場所に成り代わろうとしていると思うかもしれない。
大竹しのぶの『あなた、子ども産んだことないでしょ』は、意地悪に映るかもしれないが、「奪われた」と思っても然るべきだろう。

視聴者だって、弥生の過去を知らなければ海の誕生日に何がいいかネットで調べたり、3人で手を繋いで歩く姿はまさに理想の親子像で、『どうしよう。これ(外野から)写真撮って欲しいやつだ。3人のこの感じ。絶対憧れのやつになってる』と浮かれる気持ちを抑えきれていない様を訝しく思うだろう。『憧れだけで母親になったつもりか』と。



しかし、弥生には中絶を「した」過去があり、自ら命を奪ってしまった、自分が手にかけてしまったという自責の念や後悔を人知れずずっと抱えて生きてきた。

物理的にも、社会通念的にも。一度中絶手術を行なった以上、不妊リスクは高まるかも知れない。それ以前に、自分は母になることはもう許されないのかも知れない。

何も血のつながりがなくても母親役をやれる、母親役やりたい!と軽率な気持ちで海に会っているのではない。夏との間に子を設けるかどうかの描写はなかったが、どちらにせよ弥生はこの先も自分が犯してしまったこと十字架を背負って生きていくつもりだっただろう。

ただ、突然出てきた「母親になれる可能性」を目の当たりにしたとき、もし「選ばなかった未来」を取り戻せられるなら?という希望もよぎったのではないか。

自分がしたことへの贖罪なのか、「選ばなかった未来」への希望なのかは定かではないが、弥生は弥生なりに真剣に歩み寄ろうとしていた。

しかし、それ以上に「共有する者どうしだけの輪」は憧れではそう簡単に埋めらないことを弥生は痛感することになる。

なんらかのコミュニティにおいて、自分が「共有していない」側だったときの、この上ない疎外感に苛まれる経験が誰しもにあるだろう。その際の諦めのような屈辱のような感覚をとらえて見事演技に落とし込んだ有村架純の洞察力と丁寧な役作りには脱帽した。

海の我慢を肯定し、諭す様子は夏とは対照的だった。弥生がかけるやさしい言葉は届かず、夏の言葉だけを受け取っている海。子どもは素直で、時に残酷だ。海が差し出したハンカチに目もくれず一直線に夏に駆け寄っていったときに映し出された弥生の表情や呆然とした佇まいは、どれだけ歩み寄っても越えられない絶対的な線引きを痛感した、「共有していない者」のそれだった。やはり“繋がり”がなければ、母になれないのだろうか。

追い討ちをかけるかのように、『これから海ちゃんに会ってくる』という夏からの連絡に『早く帰れるようにがんばる』と打ちかけたときに『今日は1人で行ってくるね』と夏。義父母の家を訪れたとき、朱音から痛切な言葉を投げかけられたことや、自分の問題なのにこんなに介入してもらって申し訳ないから、といった夏なりの気遣いなのだろう。

でもその配慮こそが、「共有する者」と「持たない者」との差を弥生に突きつけた。一緒に参加するのが前提だった弥生に、この配慮は残酷だったはずだ。キュッと心臓が締め付けられて、お腹の底の方にズンッと鉛がのしかかるあの嫌な感じ。結局、繋がりを持たない自分は「他人事」なのだ、と。





その後ふっと、踏ん切りがついたかのような笑みを見せたあと、『今度話したいことあるから!』と送った弥生。感情を押し殺し、気丈に見せて1人ひっそりとトイレで泣く“大人な彼女”の『!』は、きっと同じように見せかけの『!』だ。文字通りの意味ではなく、裏の意図を含む。

弥生はいつでも、ふっと笑う。口角をグッと上に引っ張ってべたっと貼り付けた笑顔。「なんともない」で塗り固めた虚構の笑顔。

一体彼女は、何度自分を殺してきたんだろう。何度自分でなんとかしてきたのだろう。

実はこの物語は、弥生も主人公なのかもしれない。
弥生の“選択”がどうか報われてほしい。彼女の選ぶ道に、どうか光が差して欲しい。

3話は全体として「家族」と「そうでない者」というのがテーマに敷かれていたが、同じ空間の中で、「“共有する”者どうしの繋がり」と「共有していないから外れる者」の線引きが如実に露見していたこの場面は、あまりにも鮮烈に映った。


血の繋がりか、過ごした時間か。血の繋がりか、過ごした時間か。何を「共有」すれば人は“家族”になれるのか。

一方で、夏の実家族は父親と弟の血が繋がっていないが、こんな家本当にあるのか?と疑いたくなってしまうほどに、変なよそよそしさもない、仲睦まじい理想的な家族関係が映し出されている。その中で、木戸大聖演じる弟・大和が自室で亡き母親の仏前に手を合わせる横で、西田尚子演じる母・ゆき子も一緒に手を合わせている。



この場面だけでもしっかりと彼らの関係が構築されているのがうかがえるし、血の繋がっていない母息子だけど、夏がいうように「今は本当のお父さんと本当の弟」で、「本当の家族」になれたのだろう。ただ、「本当の家族」になるまでに、母・ゆき子は「共有するもの」を超えるまで歩み寄る努力をしてきたはずである。

スピンオフで『兄とのはじまり』が開始されたが、そこで今後どのように“母”になっていったのか、過程が明かされるはずだ。

血の繋がりは絶対かもしれない、と思う反面、月岡家のような家族もいるのであれば、何が家族たらしめるのだろうか。

年月か、双方の努力か。「共有する者どうし」でなくとも、繋がれるのだろうか。グラデーションのように父になり、母になれるのか。居を共にすれば、すぐ親子になれるのか。家族になれるのか。


どのように人が親になり、家族になり繋がりが結ばれていくのかを繊細な筆致で描いていく



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