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聴覚障害者は何を物語るのか?(1)

 連載がふたつとも終わり、落ち着いたので、元来やりたかった「聴覚失認者の〈語られることなかった物語〉」の研究に集中することにします。

 ふたつの連載とは医学書院から出ているwebマガジン「かんかん!」「『ことばを失う』の人類学:わたしをフィールド・ワークする」と、朝日新聞社ウエブ・マガジン「論座」「〈障害者〉と創る未来の景色」のことです。「『ことばを失う』の人類学:わたしをフィールド・ワークする」は22回まで続きましたから約2年弱、「〈障害者〉と創る未来の景色」の方も10回の連載でした。「論座 RONZA」の始まったのは2022年5月のことですから、こちらは1年弱ということになります。

 原稿料をいただいて原稿を書くという行為は30歳代から続けています。当時は平凡社の「アニマ」というおもに動物の話題を扱う雑誌や、「科学朝日」という、こちらは科学一般を題材にした雑誌がありました。わたしは当時からアフリカ中央部の熱帯林地域で調査をしてきました。30歳代の若造が書く原稿でも、アフリカのカメルーンやコンゴ共和国の熱帯雨林から送ったレポートは臨場感があったのではないでしょうか。現実には本当の森の中から出すことは不可能ですから、タマネギや干し魚といったキャンプに持ち込む食料品を買い出しに近くの町まで出たついでに、郵便局から出したり、信頼できる友人に頼んで首都から投函したりするのです。

 そんなわけで「原稿料をいただいて原稿を書く」という行為には慣れているはずなのですが、実は今でも慣れません。これは性分の問題なのかもしれません。二日ほどかかって原稿を書き上げ、出稿直前になると、つい気弱の虫が顔を出してしまいます。「この言葉でよかっただろうか」「句読点の位置は言いたかったことを表しているのだろうか」と不安なので、一日寝かせて翌朝もう一度見直す。最後は自分が読者のひとりになった感覚を信じて、読んで違和感がなければ(多少のことには目をつぶって)「えいやっ」と出してしまうのです。

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 原稿を執筆するときのようすを書きましたが、原稿を書く行為はあくまで余技です。言い訳に聞こえるかもしれませんが(何の言い訳?)、わたしにとっては気分転換なのです。それではわたしの本来するべき仕事は何かというと、それは「研究」です。

 研究者は研究費という公(おおやけ)のお金をもらって研究を続けています。研究者によって違いますが、わたしの場合、研究費の多くは人件費に割きます。どんな人件費かというと、教務補佐員という、昔でいう「パートタイムの秘書」の賃金と、わたしがおもな研究対象にしている聴覚失認者の協力に対するお礼なのです。

 世の中には障害者でも使える道具や機器が少しずつ増えてきました。わたしのような障害者には、ありがたい限りです。

 研究者は、考え、知識を得、学んだ知識を再構成して、それを研究計画に落とし込むのが、まずは第一の仕事です。「考え」の部分は磁気情報を入力する研究日誌のパソコン版があれば、字が書けなくても磁気として蓄えることができます。「知識を得」の部分は、Google_Scholarなど無料の検索サイトを利用すれば、新しく出た論文を探してどんな新しい考え方が出ているか、別の分野では同じことをどのように考えるのかを知ることができます。「学んだ部分を再構成し」の部分は、研究日誌で思いついた自分のアイデアと新しい考え方や異なる分野の発想を組み合わせることによって、今よりも将来性のありそうな「再構成」が芽吹くかもしれません。もしその芽吹きが本物ならば、それを使ってより良い研究計画へと磨き上げていきます。

 障害者だと悔しくてもできないことがあります。「パートタイムの秘書」、つまりわたしの教務補佐員は、大学に提出するさまざまな書類の作成や(基本的にわたしの場合、自宅の書斎が職場になるので――このことを大学行政という制度の中で実現してくれた大学職員の皆さんと、とりわけわたしの所属する研究所の職員の皆さんには感謝の言葉しかありません)そこでの消耗品の管理があります。それとともに参考にしたい本が「どこに行ったかわからない(散らかし放題なので終始このざまです!)」「見付けるには見つたが(マヒがあるから)自分では取れない」といった、普通の教務補佐員では決してやらない仕事もしなければならないのです。三谷の教務補佐員であれば、その面倒くさい仕事も淡たんとこなしてくれます。

 「聴覚失認者の『語り』に対するお礼」の方は、わたしと同じ研究者でも「そんなお金を払う必要があるのか」と不思議に思われるようです。お礼を渡したりすれば三谷につごうの良いことしか言わなくなるぞ。

 例えば臨床医学の研究では、新しい施術法を試すといった学用患者の場合はお金は取らないのでしょうが、あまり新奇性のない、それも一般の診療法であれば、「これは学会で発表するデータだから」とか「他の研究者と協同研究をしているので」といった患者本人にとってはまったくいわれのない診療でも、お金は患者が支払うことが当然とされています――今でも同じはずです。

 これは医学部の習慣なのでしょうが、わたしに言わせれば、あまりに傲慢過ぎます。データ提供者にはそのデータに見合うだけのお礼をお支払いするべきだというのが、わたしの主張です。ましてやわたしの場合、「聴覚失認者の『語り』」とは、聴覚失認者にしか語れないその方の、いわば「生活世界」という一種の「宇宙の見え方」なのです(何のことを言っているのかは、後述します)。この誰も聞いたことのない「生活世界」の話を聞かせてもらえるのなら、わたしは研究者が聴覚失認者にお礼を差し上げる方が当然だと思っています。聴覚失認者にとっては、本当に苦労して絞り出した「生活世界」の話の代価として見合うのかどうかはわかりませんが。

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 研究者はこのような研究費を、他の研究者がそれぞれに申請する研究計画と比べて、「実現性」や「具体性」、それに「学問的価値」が、匿名の仲間の研究者によって「ここは優れている・ここが劣っている」と順番に並べられます。文部科学省の場合だと、全体の大体25%以内に入っていれば研究費がもらえます。

 わたしが持っていた連載がふたつとも終わったにも係わらず精神的に落ち着いているのは、この科研費で医療人類学の「聴覚失認者の生活世界の研究」という題材の研究を続けてもいいよ言われからです。つまり、わたしは「聴覚失認者の〈語られることなかった物語〉」を「聞き」、紡いだ糸で編まれることのなかった布を、思う存分、織っていてもいいよとお墨付きが得られたのです。わたしは、今、68歳です。この歳で学術振興会(文部科学省の外郭団体)の科研費が採択されるとは、正直に言うと、自分でも驚いています。

 (2)に続きます。


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