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あのとき、母と友達になりたかった

3歳までの記憶は残りづらいらしい。
調べてみると幼児は話せるようになってから言葉を記憶できるようになるので、エピソード記憶という「いつ」「どこで」「何をした」の思い出を記憶できるようになるのがだいたい4歳以降になるそうだ。

一般的に子どもは1歳半ごろまでに言葉を話し始めます。つまり,1歳半ごろまでに言葉を記憶しているのです。よく考えると当たり前ですが,それでも赤ちゃんのころの記憶がないように感じるのは,「いつ」「どこで」「なにを」したかというエピソード記憶が発達していないからでしょう。「自分自身についての記憶」であるエピソード記憶は発達がとても遅く,4歳ごろに機能するといわれます。このため,幼児期の記憶がないと感じるようです。

https://psych.or.jp/interest/ff-25/


私は話しはじめるのが遅かった。
兄によるといつまでたっても、うー!うー!しか言わないからこの子は一生話せないんだなぁと小学生ながらに心配していたそうだ。
たしかに記憶を遡ってみると、幼稚園のときの記憶はまだらにあり、正確に覚えている思い出は小学校を入学してからのものだ。
3歳ぐらいの記憶もあるのはあるのだが、小さいころに残っている記憶のほとんどは、大人になるまでに母や父など周りの大人たちに繰り返し話されて作られた記憶のような気がする。

そのなかでも、自分で覚えているとはっきり自覚できるものが1つある。
この記憶だけはその時の空気の匂いや周囲の音さえも覚えている。

幼い頃の私と母だけの、秘密のお出かけ。

  ○○○

私の母は大学のときに九州から関西へやってきた。そして何やかんやあって父と結婚し、色々あり祖母と同居。そこから、兄・姉・私が爆誕。
兄、姉の年子を育てているころは毎日が忙しく嵐のような毎日だったらしい。しばらく経ってから私が2歳のときは兄は小1、姉も幼稚園に行っていたので、日中にようやく子どもと向き合える時間がとれたと話していた。
姉を幼稚園まで送ってからが、2人だけの時間。
色んなところに連れて行ってくれた。
幼稚園から家までの公園、小学校近くの小さなパン屋さん、スーパー、郵便局、本屋さん。
そのなかでお兄ちゃん、お姉ちゃんに内緒と言われて行っていたのが、スーパーの4階にあった小さなカフェ。
店員さんの注文をとる声、大人たちの喋り声のガヤガヤ感、おしぼりの清潔な匂い、そして誰かの吸ってるタバコの甘い匂い。
タバコを吸わない家族だったので、記憶のなかの甘い匂いはカフェで出しているケーキやパフェによるものだと思っていた。真実に気づいたのは大学に入ってからだった。
カフェの時間は楽しかった。パフェを食べられるのはもちろん、兄や姉には秘密という極上の優越感。 
これが唯一覚えている2歳のときの記憶だ。
ずっとこのまま楽しい思い出だけになるはずだった。

このカフェの思い出箱のなかにあるもう1つの記憶。
それはたしか5歳のときだった。

母が泣きながら歩いていた。
兄と姉も下を向いて歩いていた。誰に話しかけてもいつもみたいにお喋りしてくれない。
辿り着いたのは、スーパーの4階にある兄と姉には秘密のカフェ。
世界が夜に変わろうとしていたときだった。
いつものパフェとは違い、ハンバーグを食べた。
いつの間にか母は泣いていなかったが、何かを決めたような顔をしていた。

ハンバーグを食べていたら知らない間に父が私達を迎えにきていた。
どう帰ったのかは記憶にない。
今思うと父と喧嘩したのか、祖母と何かあったのか。

母は苦労した人だった。
祖母に気を遣い、父とは仲違いをし、それを解決しようとする前に、まず兄弟喧嘩をいさめないといけない。貧乏だったので明日からどう生きていこうか考えないといけないのに、その前にとにかく今を生きるために全員の腹を満たさないといけない。今のようにSNSのない時代。お盆にしか実家にも帰れないので、一人で耐えていた。
私が小学校にあがる前、母は司書の資格を取ろうとしていた。
眠いなら寝てていいよと言われているのに、母がいないと眠れない私は、母の座る椅子の下で眠りについていた。
あの頃だっこしてと泣き疲れて足元で眠る私が可哀想で仕方がなかったと母は語っていた。

それから母は司書の資格をとり、私が小学校にあがったときには働きに出ていた。

あのとき何を決意したのか。あのとき何を諦めたのか。

あのとき、私は母の友達になりたかった。

そうしたら夫の愚痴も、同居の愚痴も全部聞いてあげられた。
それに母が泣いたとしても泣き笑いに変えてあげられたかもしれない。
それともうんと美味しいものを食べさせて、まぁいっかと思えるようにできたかもしれない。
人見知りで甘えん坊の女の子となんとか友達になって、遊んでてあげるから勉強がんばりと言ってあげられたかもしれない。

あの頃のひとりぼっちの母に傘を差し出してあげたかった。

その後私はこのなかの願いをひとつだけ叶えられることができた。
私は中学生になるまで母の愚痴のサンドバックになった。
中学生以降は反抗期に入ったので頻度は減ったと思う。
内容はもうよく覚えていない。覚えているのは母の泣き顔だけだ。

当時貧乏で部屋がなかったので、2階で父母私、1階で兄姉祖母が寝ていた。
両親は私が寝ていると思ってよく喧嘩をしていた。ヒートアップすると父の怒鳴り声で目が覚める。幸い暴力はなかった。
母は泣いていた。時には、夢の中でも泣いていた。そのたびに背中をさすっていた。
自分の幼さが不甲斐なかった。
あのとき友達として傍にいられたら。

宇佐美りん先生の、「かか」が心に刺さったのもここら辺の経験があるからだろう。
かかを産みなおしてあげたいとうーちゃんは言った。
母の愚痴にうんざりしながらも、はっきりと拒絶できなかった私も少しは同じように思っていたのかもしれない。

私が成人してからしばらく経って、家族は空中分解した。

  ○○○

今、母は楽しそうだ。
植物を育て、自分のためにご飯を作り、裁縫をしている。坂口健太郎さんが好きらしい。

たまに、悲しいLINEが送られてくる。
小さい時幸せに育てられなくてごめんねと。そのたびに、お互いあのときはああ生きていくしかなかったのじゃないかと思う。
それに、母に言いたい。
小さいときの記憶は残りづらいというけれども、かすかに覚えている記憶のほとんどが母との楽しかった思い出だということを。
一緒にカフェに行ったとき。
ペット売り場でうさぎを一緒にみたとき。
スーパーの近くのうどん屋さんで大好きなうどんをいっぱい買ってくれたとき。
図書館に行くまでの畑道で走ったとき。
どんぐりを心ゆくまで探すことができたとき。
何冊も何冊も絵本を読んでくれたとき。
幼稚園に行きたくなくて泣く私にオリジナルの応援ソングを歌ってくれたとき。
散歩したときにみた田んぼのきれいさ。黄色くなる前の稲穂の青臭さ。
母の自転車の後ろに座りながらカラスの歌を一緒に歌ったとき。

小さいときだけで、こんなにも楽しい思い出があるのだから私は幸せだったんだ。

そうあのときの母に伝えられたなら。

タイムマシーンが開発されていないので今はできないけど、あのときの母にも伝わるように、今日感謝を伝えたいと思う。
そしてこれからの母の人生には棘が落ちていませんように。そう願わずにはいられない。



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