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ディープラーニングから見る、ネオ・サイエンス 〜あらゆるパラドックスを超えて〜

人工知能とか、AIロボットだとか、
世間とはぬーんと遠い研究機関のお部屋の中では
日々、これらの人工の脳みそを作る事に
精を尽くし続ける、研究者が居る。

彼らのディープラーニングというのは
いわば、古代ギリシアの哲学者プラトンの仮説で言う所の
"イデア"を模倣しようとする働きであり
ディープラーニングの手法とは
この"イデア"を機械学習で生成する為の
過程を示すロジックなのだろう。

しかし、ロジックというのはあくまでも線形科学である。
中でも、非線形力学系というのは
この線形科学から極限を取った、

あくまでも近似スケールの無数の畳み掛けでしかない。

現代のロボティクスの技術が
そんなロジックで構築されているというのは
言ってみれば、永劫の未来に延々と
現れ続けるパラドックスと戯れている状態といえる。

科学は、パラドックスを常に内包している。
逆に言えば、パラドックスの無い科学とは
それ自身のロジックで科学を構築する事が出来ない。

科学の内に秘めたるパラドックス
そしてこれとは、まったく逆位相の位置を取るのが
人間の思考である。

人間の認知の本質とは、ラーニングではない。
人間の認知的行動の本質には、フィーリングがある。
フィーリングとは、舵取りである。
人間の思考がある時に、なんらかの判断を下すのが
このフィーリングである。

というのは
ラーニングとは、あくまでも線形フィールドを辿る為のツールである。
そんなディープラーニングが、幾ら情報知識を積み重ねた所で
ラーニングが下す結論とは
どこまで行ったとしても、結局はラーニングによる近似解でしかない。

ここにディープラーニングの曖昧さがある。
一方で、フィーリングとは、それ自体が曖昧さの化身である。
ゆえに、フィーリングは、科学には成り得ない。
それ自身曖昧さであるフィーリングには
そもそもパラドックスがあり得ない。

しかもフィーリングにとって、パラドックスこそが、"真"であり
それは常にそれ自身において"真"であり続けるからだ。

パラドックスにおいては、"偽"というバイアスによって
論理的構造の内における矛盾系をあぶり出し
その構造を無矛盾系にロジックを立て直す事がなされる。
つまり、"偽"で定義不可能な理論は科学としては成り立たない。

このフィーリングのロジックをラーニングのロジックに
"曖昧さ"を通して接続してみると
結局、ラーニングで構築されるアーキテクチャをも
ディープラーニングのこの宿命的に現れる曖昧さの中で
やがて"偽"の定義不可能性が生じてくる事になるだろう。

それは深まれば深まるほどに
"曖昧さ"は、その扉を大きく広げて
そこから現れる岐路に
研究者が行く、これからの道の決断を迫って来るだろう。

ここから、やがて
人工知能、AIロボティクスが
パラドックスと戯れるオールド・サイエンスを取るか
また科学を超えた、パラドックスの永遠に成立しない
曖昧さが常に"真"であり続ける
ネオ・サイエンスに入っていくのか
という瀬戸際を巡る事になるだろう。

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