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「流転の海」執筆開始から37年の時を経てついに完結。


やっと、流転の海1~9巻まで読み終えました。

流転の海とは、表題作『流転の海』から始まる一連の小説シリーズで、
主に戦後から高度経済成長期にかけて、著者自身の父をモデルとした、
松坂熊吾という一人の事業家の栄枯盛衰を描いた大河小説です。
ワンマンな松坂熊吾と彼に翻弄される妻と子の家族物語であります。

そして、
関西の至る所がでてくるのですが、馴染み場所だったり、昔はそんな風になっていたのかとか、今でこそ有名な建物・ホテル・テレビ局などもその頃には存在していなくて、その経緯などが記されており、大変興味深いと感じました。

また、
その当時、日本国内で何が起こっていたのか。
まるで、当時の新聞やテレビを臨場感をもって見るような感覚で伝わってくる面白さがありました。


例えば
 * 水俣病
 * 皇太子殿下(現上皇上皇后両陛下)ご成婚
 * 国民皆保険制度
 * トヨタ自動車パブリカ 
 * 東京オリンピック
 * 新幹線ひかり号 
 * ケネディ大統領暗殺事件
 * ベトナム戦争 
 * 在日朝鮮人の帰還事業などなど



美食家の熊吾

熊吾は伸仁(宮本輝)が幼い頃から、レストラン、競馬場、雀荘、
ストリップ劇場など自分が行くどこにでも連れて行きました。
伸仁は、梅田にあるレストランでは、ビーフステーキやタンシチュウ、
ポタージュスープ、食後には、アイスクリームやホットケーキなどを
好んで食べていました。
曽根崎小学校(現在はない)低学年のとき、友達を連れてそのレストランへ行って、父熊吾のツケで友人たちに食事を御馳走していたというから驚きです。父親の影響なのでしょう、宮本輝氏の小説には、グルメの本かと思わせるような件が多く顕在します。





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父:宮本熊市(熊吾)、母:雪江(房江)、子:輝(伸仁)
  ()は、小説に出てくる呼称



1️⃣ 流転の海


“終戦直後大阪編”
     昭和22年春から24年春まで。
     熊吾五十歳から五十二歳。伸仁誕生から二歳まで。

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戦前、松坂熊吾は自動車部品会社の経営者として飛ぶ鳥を落とす勢いで、
豪胆と我儘、善意と理不尽、無邪気と先見性を湛えた魅力ある男だった。
妻房江は実母と死別し、実父には捨てられ、苦労に苦労を重ねた後、
結婚したが、子をなしながらも仔細あって別れた。
その後、大阪新町の茶屋の仲居となり、美貌と繊細な気遣いが見込まれて、女将の代理として帳場他一切を取り仕切るようになった。
その頃、熊吾と出会う。
熊吾四十五歳、房江三十二歳であった。
昭和22年、熊吾は五十歳にして、半ばあきらめていた
思いもよらぬ子宝を授かった。
4人目の妻である房江に宮本輝こと松阪伸仁が生まれます。
それまで、再婚を繰り返していたが、子供には恵まれなかった。
熊吾は病弱な乳飲み子の伸仁に誓う。

俺はこの子が二十歳になるまでは絶対に死なん。

そして、伸仁を溺愛するのです。
病弱な幼い伸仁が、熱で朦朧とし、生死をさまよっている時
「どうせ死ぬならわしが殺しちゃる。わしの作った鶏のスープを飲んで死んでしまえ」
という凄いシーンもありました。



松坂熊吾は戦争で失われた自身の会社・松阪商会を大阪の闇市で復活させようと奔走。松坂商会は、戦災による資産の消失と資金の未回収で、裸一貫からの再起となった。
進駐軍の払い下げ物資による中古自動車部品販売業からの再出発である。
そんな中、熊吾が信頼を寄せていた番頭井草正之助に回収した巨額の現金を持ち逃げされる事件が起こる。この事件は、熊吾のかつての使用人であった亜細亜商会社長海老原太一が裏で糸を引いていたことが後に判明する。
戦後、バラックの立ち並ぶ闇市で知り合った京都帝大出の陰のある秀才、
辻堂忠(後に東京の証券会社の社長になる)が松坂商会に入社する…。




2️⃣ 地の星


“南宇和編”
     昭和24年春から昭和27年春まで。
     熊吾五十二歳から五十五歳。伸仁二歳から五歳。

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松坂熊吾は、会社を畳み、郷里、愛媛県南宇和に移り住んでいた。
病弱な伸仁・房江の健康を案じ、自然の緑豊かな故郷で数年の間、暮すことを決意しての田舎住まいであった。
伸仁は四歳になり、心身共に健やかに育っていた。
不幸に過ぎる生い立ちから、心に萎縮した陰のあった房江も伸びやかな本来の自分を取り戻しつつあった。
しかしながら、
熊悟の周りでは、田舎暮らしでも穏やかなはずもなく・・・
四十年前、熊吾に左足に怪我を負わされ生涯の傷となったことを逆恨みに思っていた増田伊佐男が、突如、熊吾の前に現れた。
伊佐男は、広島でやくざの組長となっていた男である。
身内の男を助けるために、衆人環視のなか獰猛な突き合い牛の眉間を銃で撃ち抜いて殺し、騒動となる。
この時、両者の因縁はより深まっていく。
男関係に節操のない熊吾の妹タネは、それぞれ父親の違う明彦と千佐子を
私生児として生んでいた。タネの生計を案じ、熊吾はダンスホールを建て、タネに経営を任せた。
伊佐男はタネのダンスホールを標的に悪辣な嫌がらせを繰り返すのだが……。



3️⃣ 血脈の火

“大阪・土佐堀川編”
     昭和27年春から昭和30年5月まで。
     熊吾五十五歳から五十八歳。伸仁五歳から八歳、小一から小三。

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やはり都会が恋しくなり大阪へ戻ってきた。
松坂熊吾は、持ち前の才覚で中之島の三階建てのビルに、
一階は雀荘、二階は中華料理店、三階は消火用ホースの修繕を請け負う
テントパッチ工業株式会社を設立し、多角経営に乗り出した。
曾根崎小学校に入学したばかりの伸仁は堂島川、土佐堀川を遊び場として、ポンポン船の船頭夫婦、沖仲仕、近所の商売人、そしてやくざ者までも知り合いにして、逞しく伸びやかに育っている。
南宇和から、熊吾の妹タネ、母ヒサ、姪千佐子が上阪し、尼崎に移り住む。タネはやくざまがいの男と同棲し、老母ヒサをないがしろにしはじめた。
ヒサの面倒は房江がみるようになったが、一瞬、目を離した隙に、
ヒサは突如、姿を消してしまった。
新しく、きんつばの製造販売業も起こし、一見、熊吾の事業は順調に展開していくかに見えた。
しかし、台風による被害に会い、なぜか銀行からの融資を断られ、
運の悪いことに経営していた中華料理屋の弁当を提供した社員が
きめられた時間外で食べたため、食中毒になってしまう。
その会社(電信電話公社、後のNTT)の社員が悪いのに……。



4️⃣ 天の夜曲

“富山編”
     昭和31年三月から同年九月まで。
     熊吾五十九歳。伸仁九歳、小四。

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昭和31年、富山で中古車部品販売の開業を目論む高瀬勇次に共同経営を誘われ、熊吾一家は富山に移った。
それは、台風で浸水して使い物にならなくなった消火ホース修繕用接着剤の廃棄処分による事業撤退、食中毒事件の冤罪により大阪での事業をたたまざるを得なくなった失意の転居であった。
四年生になった伸仁は、高瀬家の三兄弟を子分に従え、富山弁も操るようになったものの、臨時担任のために心因性の発熱と蕁麻疹に悩まされる。
房江は雪国の風土になじめず、折からの更年期による気鬱も相俟って、
重い喘息の発作に苦しむ。
熊吾の金を当てにしていただけの吝嗇家である鈍重な高瀬に見切りを付けた熊吾は、単身大阪へ戻り、関西中古車業会の設立と共同展示販売会の実現へと奔走する。
一方、旧知のヌードダンサー森井博美が頭部を大火傷し、顔にケロイド状の跡が残る。事故現場に居合わせた熊吾は治療に尽力する。
秘蔵の名刀、関の孫六を海老原太一に土下座して換金するが、
その一部は治療費に消える。
全てを賭けて大勝負に出た熊吾だったが、頼みにしていた久保敏松が、
集めた資金を持ち逃げしてしまっていた……。




5️⃣ 花の回廊


“尼崎・蘭月ビル編”
     昭和32年3月から昭和33年夏まで。
     熊吾六十歳から六十一歳。伸仁十歳から十一歳、小五から小六。

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事業に失敗して財産を失った松坂熊吾は、電気のない、シャワーも外の
水道水というような状況の大阪・船津橋のビルでの生活は、
小学生高学年の伸仁には厳しすぎるため、
叔母住む尼崎の貧しいアパート蘭月ビルに預けられることになる。
蘭月ビルのワケありの人々との壮烈な人間ドラマの渦に巻き込まれていく。
熊吾は、ビリヤード店「ラッキー」を根城にして中古車のエアー・ブローカー業を続け、房江は宗右衛門町の小料理屋「お染」で夜遅くまで働いて
熊吾を支える。
ある日、熊吾の母ヒサとおぼしき白骨死体が、香川と徳島県境近くの山奥で見つかったという報告があり、熊吾も房江もその死を受け入れる。
そんな中、熊吾は大阪福島にある女子高が移転することを知り、
そこに巨大なモータープールを作ることを思いつく。
この頃、自動車の需要が一気に増え、路上駐車が問題になりつつあった。
熊吾は、これからモータプールが必要になる時代が来るはずだと
シンエー・タクシー社長の柳田元雄にその話を持ちかけ、
「シンエー・モータープール」の開設に漕ぎつける。
熊吾一家は、そのモータープールの管理人として、かつて校舎だったところに住み込みで働くことになり、久しぶりに親子三人で住めるようになった。
熊吾の先見の明は、外れることはなく、商売の才覚に優れていると感心してしまうのです。




6️⃣ 慈雨の音


“大阪福島・シンエー・モータープール編”
    昭和34年4月から昭和35年8月まで。
    熊吾六十二歳から六十三歳。伸仁十二歳から十三歳中一から中二。

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中学生になったものの、あいかわらず病弱な伸仁の身を案じていた松坂熊吾だが、駐車場の管理人を続けながら、勝負の機会を窺っていた。
伸仁の身体を丈夫にするために小谷医院へ通わせ、その支払い額が大きく、熊吾は中古車ブローカーの仕事を始めた。
小谷先生は、医療点数の為に必要もない薬を処方することになると
国民皆保険制度に疑問を持っており、保険取り扱いをしない医院だったため
伸仁の為の医療費が高額になっていた。(10割負担)
たまたま京都駅で遭った、ヤクザ観音寺のケンに、熊吾は海老原太一が熊吾の金を横領した証拠となりうる名刺を渡す。
その後、衆議院に立候補を表明していた太一は、愛媛道後温泉で首つり自殺を遂げ、新聞報道で熊吾はそれを知る。
伸仁と同級生で、蘭月ビルに住んでいた月村敏夫と妹が、母が朝鮮人と結婚したために北朝鮮に渡ることになり、見送りのため熊吾と伸仁は淀川で鯉のぼりを振り、別れを告げた。それは、駅には夥しい警察官が配置されており、駅への見送りはできない状態だったという。
月村兄弟は北朝鮮へ行くことを嫌がっていたが、北朝鮮に着いたら必ず手紙を書くと言っていた。しかし、いくら待ってもその手紙は届かなかった。
その後、北朝鮮へ渡った人からの手紙を誰も受け取った者がいないことが判明する。
昭和35年の夏、熊吾は鷺洲に土地を借り「中古車のハゴロモ」を始めた。熊吾は再び事業者としての道を歩み出したのだが…。




7️⃣ 満月の道


“大阪福島・中古車のハゴロモ編”
    昭和37年から昭和38年。
    熊吾六十五歳から六十六歳。伸仁十五歳から十六歳 高一から高二。

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東京オリンピックを間近に控えた昭和37年、順調に伸びていた
「中古車のハゴロモ」の売上が突如低迷しはじめた。
伸仁は高校生になり、身長は熊吾を超えた。
熊吾は、質の悪い情夫と別れられないでいる森井博美と再会し、
不本意ながらその手切金の金策に奔走することになる。
以前のように、お金が潤沢にあるわけはない為いろんな人から借金をすることになる。その上、板金の事業にも手を出して、資金繰りに苦労をするのだが、そんな中、仕入担当の黒木は「ハゴロモ」の不自然な入出金の動きを嗅ぎ取る。
その理由を探すと意外な人物が浮かび上がってきて……。
運命という奔流は抗いようもなく大きく旋回しはじめる。




8️⃣ 長流の畔


“大阪福島・大阪中古車センター編”
  昭和38年から昭和40年。
  熊吾六十六歳から歳から六十八歳。伸仁十六歳から十八歳 高二から。

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昭和38年、六十六歳の松坂熊吾は会社の金を横領され、
金策に走り回っていた。
大阪中古車センターをオープンさせるも、心身の疲れからか、
別れた愛人とよりを戻してう。
それが妻・房江の知るところとなる。
高校生の息子・伸仁は房江の味方となるが、心を痛めた房江はついに
自殺を図る。
だが、いくつもの幸運が重なり、一命をとりとめる。

房江が熊吾の浮気によって辛い目に遭い、
気持ちが「驚き、嫉妬、悲しみ、諦め」と変化して、
絶望のどん底までいったあと、自分が大好きなお酒はやめないと
清々しいほど以前の自分と決別しているところに好感が持てた。
その後、熊吾と房江・伸仁は別居生活が続くのだが……。
伸仁は、高校生になっており大学受験を目指す。




実際に後の宮本輝氏のインタビューで、

母は自殺未遂の後、ものすごく強い人になりました。
その後はもう、熊吾のことなんか知るか、みたいな。

と仰っていました。



一方で、房江が未遂に終わった後で、伸仁が

「お母ちゃんは、ぼくを捨てたんや」

というシーンがあるのですが、何とも言えない気持ちになりました。



9️⃣ 野の春

 
“熊吾終焉編”
  昭和41年から昭和43年。
  熊吾六十九歳から歳から七十一歳。伸仁十九歳から二十一歳 大学生。



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自らの父をモデルにした松坂熊吾の波乱の人生を、戦後日本を背景に描く自伝的大河小説「流転の海」。
昭和42年、熊吾が五十歳で授かった息子伸仁は二十歳の誕生日を迎える。
「俺はこの子が20歳になるまでは絶対に死なん」そう誓った熊吾の、大願成就の日を家族3人で祝うが・・・・・。

しかし熊吾の人生の最期には、何が待ち受けていたのか。
妻の房江は、伸仁はどう生きていくのか。
幸せとは、宿命とは何だろうか──。


最終章であるからには、熊吾が終焉を迎えるのだと想像はできていた。
しかし、この章の主役は、房江であった。
その後の房江が一人の人間として活き活きとするシーンが展開され
前章のこともあり、ホッとするやら嬉しいやらで、心楽しく読むことができました。
ラストは心温まるもので、とても感動します。


小説の中で熊吾が伸仁の為に、様々なことを教えています。

「約束は守らにゃあいけん」
「丁寧な言葉を正しく喋れにゃあいけん」
「弱いものをいじめちゃあいけん」
「自尊心よりも大切なものを持って生きにゃあいけん」
「女とケンカをしちゃあいけん」
「なにがどうなろうと、たいしたことはあらせん」


その中でも印象に残るのは、

「なにがどうなろうと、たいしたことはあらせん」

という言葉です。
なんだか勇気の沸く言葉ですよね。

宮本輝氏自身も
何かのインタビューでこの言葉に触れていらっしゃいました。

僕が、
「でもお父ちゃん、明日死ぬって言われたら、それはたいしたことやろ?」と聞いたら、
「それは死ぬだけじゃ」と答えたんです。
死もたいしたことじゃない、と。
死は永遠の終わりではなく、もう少し違うような気がすると言うんですね。「それは何で?」と聞いたら、
「お前も戦場に行ったらわかる」と答えました。



🐻 熊吾が大嫌い
 

理不尽極まりない、わがまま男で女好きの熊吾。
戦後の日本には、こんな男たちがたくさんいたという。
熊吾の破天荒で情に厚く豪快な人柄と逞しく生き抜く姿に魅了されながら、妻の房江への態度があまりに横暴で、情け容赦なく殴るシーンには怒りさえ覚えてしまいました。
学歴がないことから劣等感の塊で、それでいて、常に自分がお山の大将でなくてはならない。相手の立場など考えもしない。人からチヤホヤされる反面、恨みも買う。しかも、お金に関してはどんぶり勘定で、腹心の者から何度も横領されているのに、毎回懲りない。いい加減学習したらどうだ。
これなら、ただのスケベ親父だと軽蔑していました。
(小説に入り込みすぎ💦)
伸仁は、そんな父から母を守ろうと柔道のけいこに励んでいました。
父の身長を超えた高校生の伸仁が、父と対決して勝ってしまうシーンがありました。
いいぞ!伸仁と思う反面、熊吾のことが可哀想に思うのは何故だろうか。
逆に、房江の真面目で心優しいお料理上手な「伸ちゃんのおばちゃん」が大好きでした。最終章の野の春で、房江らしく元気な様は、先にも書きましたが、本当に嬉しかった。
伸仁はこの心優しい両親の愛情をたっぷり受けて、一見頼りなさそうな感じだけれど、いろんな人から可愛がられ、頼りになる青年に成長していくのを見るのがまた、楽しくて嬉しい気持ちになりました。

この長い長い、小説にはたくさんの人たちが登場します。
宮本輝氏の独特の描写で、ほんのわずかだけ登場する人でさえ
とても印象に残るのです。
その人が背負ってきた人生を垣間見るような感じです。
ご紹介できないのは残念ですが、是非とも、この大河小説を手に取ってみていただきたいと思います。
面白くて、あっという間に読んでしまいますので。





最後まで読んでくださいまして、本当にありがとうございました。

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