【感想】『世界は贈与でできている』
SNSで感想を書かれている人がいて、気になったので購入しておいた本。
連休の中日に、手にとって読み始めたところ、のめり込んで一気に読み通してしまいました。
タイトルから想像した内容の100倍ほどの密度で、贈与という営みがこの世界を成り立たせていることを解き明かしてくれました。
内容は哲学から文学、社会学、歴史学、科学にわたるまで縦横無尽に飛び回りながら、「贈与」というものがなにか、他のものと何が違うのかという軸に次第に到達していくような内容。あとがきにもある「世界と出会い直す」きっかけとなりました。
読後の爽快感をこのような書籍で味わうのは久しぶりでした。いわば、贈与をうけました。このうけとった贈与をだれかに贈与したいと思ったので、noteに記します…
…記すというより、「世界と出会い直す」きっかけとなった、震えるような一節たちの引用集のようになっていますが、気になった方はぜひ手にとってお読みください。
贈与とは?
僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動を「贈与」と呼ぶ(P/4)
お金でかうことのできないものとは?
贈り物
・価値交換:自分で買うことのできるもの
・贈与 :余剰(お金で買うことができない想い等)を含む
(贈与として)誰かから贈られた瞬間に、この世界にたった一つしかない特別な存在へと変貌する
他社から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることはできない。(P22)
贈り物はもらうだけでなく、贈る側、つまり差出人になることのほうが時として喜びが大きい。
贈与は必ず返礼が後続する P25
📖 感想
贈り物 という言葉の意味に違いがあることに、これまで無頓着に生きてきた。むしろすべての贈り物は「交換」であるとして、人間関係を生きてきた気がする。それがたとえ肉親でもそうだったかもしれない。
ただ、子を持つ立ち場となって、世界には「交換」でない「渡しっぱなし」の贈り物もあるのだなと気づいてはいた。そのものの正体をズバリ言い当ててもらえた気がする。
交換でない、贈与が、教育の本質であろう。
贈与はプレヒストリーを持つ
無償の愛は無から生まれていない、必ず前史(プレヒストリー)が存在する(P29)
「私には育ててもらえるだけの根拠も理由もない。にもかかわらず、十全に愛されてしまった」、つまり「不当に愛されてしまった」という自覚、気付き、あるいはその感覚が、子に「負債」を負わせます。
それゆえ、意識的か無意識的かを問わず、負い目を相殺するための返礼、つまり「反対給付の義務」がこの内側に生じます。
反対給付の義務に衝き動かされた、返礼の相手が異なる(つまり恩「返し」ではない)贈与。これこそが「無償の愛」の正体なのです。
(P29-30)
子が自立するまで、親は反対給付の義務のただ中にいることになります。
では、親は何を持って自分の愛の正当性を確認できるのでしょうか。
子がふたたび他者を愛することのできる主体になったことによってです。(P31)
だから、親は、孫が見たいという。
📖 感想
贈与という視点から、親の「無償の愛」について解き明かしてくれた。子を持つ立ち場となったときの、この感情は何なのだろうと思ってはいたが、これこそが、世界が回っている理由だったのだなと気付かされた。
ギブアンドテイク
交換の論理、つまりギブ&テイクやウィン・ウィンの論理は、「交換するものを持たないとき、あるいは、交換することができなくなったとき、そのつながりを解消する」ことを要求する。(P52)
交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる (P53)
誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。(P55)
📖 感想
いつでも、なにかを、誰かと交換できること。それをヒトは自由と呼んできた。但し、それを自由と呼ぶことによって、かわりにヒトは生きづらさを手にしてきたのだとおもう。
贈与による、返礼の無時間性を超越した、誰かへの、受け取られないかもしれない贈り物こそが、ヒトをより自由にするのだと感じた。
インセンティブとサンクションの幻想
サミュエル・ボウルズの『モラル・エコノミー』にも挙げられた、
「申し訳なさやうしろめたさを、金銭と交換させてしまった」ことで、金銭的サンクションで、逸脱行為や違反は増えてしまう事例
や
「若者の献血離れ」
献血は無償の善意であり、自身の血液を差し出すという、極めて贈与的な貢献。
・・・
直接的なレスポンス、言い換えれば、目に見える形の「他者への影響」あるいは「効果」を求めている。
自分自身が社会からの恩恵、つまり贈与を受け取っていると気づくことができない。特に献血というシステムのありがたみは自分が大けがをしたり、大きな手術をしたりした経験がなければ感じにくいのかもしれません。だからこそ、贈与のパスを出すことができない。(P65)
📖感想
これらについても、交換による無時間の返礼性を期待しているから発生することだと感じた。
贈与が呪いになる
僕らは知らずしらずのうちに、贈与を通して他者とつながっている。これは贈与の正の側面です。
しかし、物事には裏の側面、つまり負の側面があります。
贈与には人と人を結びつける力があるがゆえに、その力はときとして私を、そして他者を縛りつける力へと転化します。 P72
📖 感想
これらは、いわは毒親や人間関係、上下関係の悩みの本質だと感じる。
強制的な贈与によってヒトを縛りつけること。無償の愛の名において、ヒトを利用することができてしまうこと。
「親の心 子知らず」
この世に生を受けるとき、交換するものを一切持たない状態で生まれてきます。
親子の関係は、親から子への一方的な贈与で成り立っています。
しかし、ここに贈与の暴力性が潜んでいます。(P89)
子は親の苦労を知ってはならないという意味で正しい(P90)
交換の論理の最大の弊害は「意味」を無時間的にもとめてしまう点 (P91)
「贈与は、それが贈与だと知られてはいけない」
「これは贈与だ、お前はこれを受け取れ」と明示的に語られる贈与は呪いへと展示、その受取人の自由を奪います。手渡される瞬間に、それが贈与であることが明らかにされてしまうと、それは直ちに返礼の義務を生み出してしまい、見返りを求めない贈与から「交換」に変貌してしまう (P92)
贈与者は名乗ってはなりません。名乗ってしまったら、お返しがきてしまいます。
贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。
しかし、ずっと気づかれることのない贈与はそもそも贈与として存在しません。
だから、贈与はいつかどこかで「気づいてもらう」必要があります。
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい。 (P93)
この贈与を、気付けること。
気づくには、受取人としての想像力を発揮するしかない。
サンタクロース=名乗らない贈与者
サンタクロースという装置によって、「これは親からの贈与だ」というメッセージが消去されるからです。つまり、親に対する負い目を持つ必要がないまま、子は無邪気にそのプレゼントを受け取ることができるのです。(P108)
贈与は未来にあると同時に過去にある
贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。(P113)
📖 感想
ここが、読んでいて一番の山場だった
本当にそのとおりだなと衝撃をうけてしまったので。
親として子供を育てることは、すべて贈与だ。
という、生きることの意味に「出会い直し」させてくれた。
時をへて、贈与に気づいてもらうことができる。
「時間」によって「贈与」という概念そのものを「贈与」し、つぎの世代につなげていってもらうことができる。
だから、「親の心 子知らず」でよいのだ。
言葉は意味をもつ
他者と共に生きるとは、言語ゲームを他者と一緒につくっていくこと (P136)
「言葉は、言葉以前にあるなにか別のものの翻訳なのではない」
ウィトゲンシュタイン『断片』191節 (P130)
常識を疑うというのは、「〜なのは本当なのか?」とつぶやくことではありません。今営んでいる言語ゲーム全体を否定するというあまりにも無謀なチャレンジ (P138)
僕らがこの命題を使用する言語ゲームを行っていて、いまのところ、解決不可能な齟齬が発生していないからこそ、これが真理として登録されているのです (P144)
「すべてを疑おうとするものは、疑うところまで行き着くこともできないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提としている。」
ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』第115節
(P145)
逸脱的思考と求心的思考
あらたな真理となる法則は、常識を疑ったことによって発生したのではない。発見されるのは未来であるが、その発見される等の事実は、発見よりはるか昔から世界の内に存在していた。(P152)
アノマリーの検出には、合理性という基盤、常識的知識という足場が必要 (P163)
贈与を受け取るために必要な能力が求心的思考
SF的想像力=逸脱的思考
逆説的なことに、現代に生きる僕らは、何かが「無い」ことには気づくことができますが、何がが「ある」ことには気づけません。
いや、正確には、ただそこに「ある」ということを忘れてしまっている (P183)
SFとは、なにかを消すことにより、なにかがあることの大事さに気づかせる試みである。
📖 感想
改めて、
贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
というところに帰結する。
アンサングヒーロー
その功績が顕彰されない陰の功労者。歌われざる英雄(unsung hero)。
アンサング・ヒーロー。
それはつまり、評価されることも褒められることもなく、人知れず社会の災厄を取り除く人ということです。(P209)
この世界には無数のアンサングヒーローがいた。
僕らはあるときふと、その事実に気づきます。(P210)
僕らは「サンタクロースなんかいない」と知ったとき、子供であることをやめる。
そして「この世界には無数のアンサング・ヒーローがいたのだ」という気づいたとき、僕らは大人になる。
この文明の秩序というアノマリーに気づき、それを合理化するプロセスを経て、初めてアンサング・ヒーローがいたはずだ、いたに違いないと知ることができるのです。(P211)
📖 感想
本をかく、講演する、アウトプットするということも、贈与なのだ。
贈与によって世界がより「よく」なってほしいという願いだ。
ちゃんとうけとれているか定かではないが、贈与は受け取る側から始まる。この受け取ったものをきちんと自分ものにして、また誰かに贈与したい。
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