「新婚旅行ハリケーン」の古典性と現代性について
先日公開された、「恐竜日記」に落胆していたところ、妻がお気に入りだという「クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 〜失われたひろし〜」を鑑賞したのだが、余りの出来に恐れ入った。
何よりもまず、ちゃんと話が面白い。明快に面白いエンタメ活劇でありながら、現代的なテーマを扱った鋭い批評性も持ち合わせている。
そして、古典映画への敬意がある。映画といえば活劇というイメージが現代よりさらに強かった、特に1930年代~50年代アメリカ映画からの影響を感じた。明快で上質な娯楽作が量産されていた時代の作品を参考にするのは、広い世代を楽しませる命題があるクレしん映画のスタンスとして圧倒的に正しい。
人によっては、何が何やらという話かと思うので、いくつかの項目に分けて、もう少し分解していきたい。
しんちゃんの影にはホークスがいる
今作を鑑賞してどうしても想起せざるを得なかったのが、1930年代から60年代にかけて活躍した、アメリカ映画の巨匠ハワード・ホークスだ。
男女のドタバタを描いたスクリューボールコメディから、ハードボイルドなミステリー、快活な西部劇まで、扱ったジャンルは実に幅広い。映画のオマージュが頻出するクレしん映画の中でも、今作の背骨を通しているのはホークスではないかと思う。
あらゆるジャンルを、手を変え品を変え取り入れる姿勢や、明快な娯楽作であり、活劇に重きを置いているところは、クレしん映画とホークス映画の共通する点ではないだろうか。
また、クレしん映画が基本的には回想を用いずに、話を前へ前へアクションによって進めていくところも、ホークス性を感じる所以だ。(ただ、クレしん映画の回想シーンは、必殺技の威力があることも触れずにはいられない。)
細かいところでいくと、ホークス映画は人物の背中の扱い方が格段に上手い。コメディ映画では、タキシードやスカートのお尻が破れた箇所を隠す(今作でみさえのズボンが破れていたのは言うまでもない)のに躍起になることで、コメディとサスペンスを両立させ、西部劇では相手の攻撃に備えて、背中を守る。
アクションや位置関係により、映画を躍動させるのは、クレしん映画にも通底している。クレしん映画の背骨と言える部分を語ったところ(非常に表面的でありながら)で、次項からは、クレしん映画の固有性をたらしめる、関節と言えるポイントを取り上げていく。
ジャンル映画のごった煮祭り
ホークスが、作品を跨いであらゆるジャンルを横断していったのとは裏腹に、クレしん映画では、一作であらゆる作品の要素をぶち込んでもいい特権がある。
基本的にはナンセンスコメディであるクレしん映画は、通常の作品よりもやってもいいことの領域が広い。これは、一から作るアニメーション作品の恩恵もあるだろう。
倦怠期夫婦的(実際の野原夫婦は至極おしどりである)なロマンスに始まり、マッドマックス的な荒廃した世界観、異文化とのカルチャーギャップコメディ、男女を逆転したディズニープリンセス的要素、インディージョーンズのような王道冒険活劇。
こんなに要素を詰め込みながら一本の映画を成り立たせることに、観客を絶対に退屈させない意志を感じる。
野原しんのすけという、なんでもありの領域を押し広げるアクロバティックな主人公により、ホークス性から飛躍した、固有の作品価値があることは、入念に強調しておかなければならない。
明快な脚本作り
娯楽作として活劇と同じくらい重要なのは、明快な物語だ。子供から大人まで楽しめる作品に、複雑な物語は必要ない。百人いたら百人同じ感情になれるような物語と感情を描く必要がある。
となると物語のルール、いわば目的はとても重要だ。細かいことを言えば色々あるのだが、今作の目的は、日食までに現地の部族に誘拐されたひろしを取り返すことである。(失われたひろしという、バカバカしいにもほどがあるパロディタイトルも最高だ。)
映画は、ミステリーよりサスペンスの方が相性がいいと私は思っている。
始まったら戻ることができない映画(サブスク時代につきこの定義も意味をなさないかもしれないが)は、ミステリーというあらゆる謎をかき集めてひとつの回答に到達するジャンルには不得手だ。自分のペースで読めて、いつでもページを戻れる小説とは違い、映画は伏線を覚えていられない。
謎を解決することに比重が置かれると、回答が見えた途端に、映画自体に対してどうでもいい感情が湧くこともあるだろう。
作品群を見るに、ホークスも同じ考えだろう。客観的なカメラアングルによって、「そっちに行ったら危ないよ!」といった風にサスペンスを誘発する。
しんのすけも、大人たちの倫理を超えて縦横無尽に動き回る。「しんちゃん、そっちに行ったら危ないよ!いや、こんなときに何してんねん!」と。
それが、コメディにもサスペンスにもなるところにも、ホークス性を感じる。
そして、映画と最も相性のいいサスペンスとして挙げられるのは、時間だ。
「いつまでに何をする」が明快だからこそ、自由なしんのすけの振る舞いに、笑いながらもハラハラするし、みさえは更に必死になる。夫を救うために、子供に振り回されながらも必死に自分の足で前に進むみさえを見て、緊張感を抱きながらも胸が熱くならない者はいないだろう。
キャラクターのアイデンティティが、多くの国民に知れ渡っているところから生まれる、応援したいという感情もクレしん映画の固有性と言えるかもしれない。
映画におけるコメディの正体
クレヨンしんちゃんがなぜ、ナンセンスコメディとしてここまで笑えるのかについては、前回投稿した以下の記事を参照して欲しい。
「新婚旅行ハリケーン」は、筆者の指摘を裏付けるような作品だったと思ってしまう。申し訳ないが、しんのすけへの突っ込み役として、近年過剰な役割を担わされている風間くんの出番がほぼない。
また、オーストラリアを案内するカオ・コスギの振る舞いもいい塩梅だ。
(相変わらずふざけたネーミングも最高である。)
カオ・コスギは、いかなるときも自分の職務を全うし、しんのすけの蛮行に対してもツッコミを入れない。ナンセンスなギャグを、放置しておくことで生まれる笑いのシュールを生み出すのにも、一役買っている。むしろ、独特な佇まいに、しんのすけの方が気圧されている。
やはり、改めて強く言っておこう、クレヨンしんちゃん映画にツッコミは不要だ。
みさえを軸としたフェミニズム映画
「新婚旅行ハリケーン」の古典性によるすぐれた娯楽性について、述べてきた。
ここからはみさえを軸とした、「新婚旅行ハリケーン」が描く現代的な批評性についても深堀りしていく。
本作では野原一家ではなく、みさえが物語の軸に置かれている。もはや、みさえが主役のスピンオフ映画と言ってもいいくらいに。
ただ、みさえを主役に据えて視点を変えただけに留まらず、2010年代後半から2020年代にかけて(本作は2019年公開)、現代の映画として何が必要か考えられている。
みさえという1人の人間にフォーカスしながら、1人の女性であることに対し、批評的に描かれているのではないだろうか。
今作のみさえは、2人の子供がいる傍ら、愛する夫と叶わなかった新婚旅行に行きたい、おしゃれな水着を着たい、という欲望に忠実なキャラクターとして存在している。野原家が、一般的な日本の家庭像(現代となっては異論があるかもしれないが)をモデルに構築されていることから、みさえの欲望は一般的な女性の欲望を表象していると言えるだろう。
「新婚旅行ハリケーン」は、みさえを1人の女性として表象し、母として、中年の女性として、いかに日々を奮闘しているかを描いた、現代的なフェミニズム映画であるからこそ、傑作になったのだと思う。
次項以降では、本作の心臓と言える、現代的な批評性にさらに迫っていく。
母としての役割
本作のみさえは、過去作と比較しても、母親の役割という点が強調されている。ひろしがピーチ姫の如く誘拐されたあとも(字面だけで笑えてくる)、リュックサックにはたくさんのオムツが仕込まれており、活劇の最中でも子供の面倒を見て、オムツを替える。
誘拐されるのが女性ではなく男性という点も、従来の物語の構造に対しての反転しているのは、一目瞭然だ。
夫がいない局面で、これだけのことをこなすみさえの様子は、夫がいない間に、家事に奮闘する日常の専業主婦を隠喩していると言える。
今作のみさえは、とにかくたくましい。子供たちに振り回されても、若い女性に馬鹿にされても、夫を救う目的に対し、ひたすら一直線に突き進む。
みさえの姿に感動しつつ、日頃の母親はこれだけの任務を負っていると実感する。まして、専業主婦という立場は、誤解を受けやすい。
作中のジュンコから、「もっとお金とか価値ある人生を手にした方がいいのでは?」という問いを投げられる。
しかし、みさえは回答を拒む。以降の生き様で、問いに対する回答を叩き出して見せるのだ。
筆者は、「新婚旅行ハリケーン」は、旧来的な家族愛や夫婦愛を、殊更に掲げる作品ではないと感じている。どうであれ、一緒に暮らしている人を最大限尊重すべしと、提唱しているだけに過ぎない。
みさえは、夫だからひろしを救ったのではなく、大事な人だから救ったというバランスに本作ではなっている。
母親という役割を描きながら、あらゆるパートナシップとしてどう生きていくのがいいのかを考えた作品と捉えるのは、本作を買い被り過ぎだろうか。
異なる世代の連帯
本作では、みさえと対照的なキャラクターとして、トレジャーハンターのジュンコが登場した。
家庭を持つみさえと異なり、ジュンコはお宝の獲得に奔走する。
こちらは、言うまでもなく社会進出した現代の女性を隠喩していると言える。ジュンコは、悪戦苦闘しながらも目の前の仕事に対して、必死に取り組み、世間が求める女性像に全く応えない存在だ。
みさえから、可愛げがないとなじられたとき、「可愛さ」を必要としていないというセリフが、ジュンコから発せられる。
対照的な2人は、物語の中盤まで対立する形で描かれる。
それはまるで、日本のバラエティー番組でよく目にする、若い女性と中年女性が対立するさまに見えてくるのだ。「女の敵は女」という言葉があるように、どうやら世間は女性同士を対立させたがる。
しかし、本作では次第にお互いの存在を尊重するように変化していく。
みさえは、ジュンコのトレジャーハンターとしての能力に助けられ(アンラッキーだが)、ジュンコは、育児グッズが大量に入っているみさえのリュックサックの重さに驚嘆する。「新婚旅行ハリケーン」は、仕事に打ち込む若い女性も、家事に専念する中年女性の生き方も、全く持って断罪しない。
それぞれの持ち場で能力を発揮する、女性賛歌映画だと筆者は感じた。
2020年代以降、「あのこは貴族」を筆頭に、女性の連帯を描いた作品が増えてきているが、「新婚旅行ハリケーン」は、それの先駆けとなる傑作だと言えるのではないか。
よき父への目線
クレしん映画シリーズで最も感動したシーンに、「大人帝国の逆襲」におけるひろしの回想パートを挙げる人が多いだろう。ひろしの足の臭いで、かつての家族の記憶が蘇るという、バカバカしさとハートウォーミングさが両立した、映画的にもクレしん的にも素晴らしいシーンだ。
ただ、父親目線の回想のみが提示されることに、疑問を抱いた人もいるかもしれない。(事実、筆者はSNSでそのような指摘を見てハッとさせられた。)
「新婚旅行ハリケーン」は、そんなヒロイックな父性に対する視点も批評的に盛り込まれている。
今作で、自らが犠牲になり家族を救うという欺瞞とも言えるひろしの行為を、みさえが岩陰に隠れ声高に非難するシーンがある。(ここで、子供たちの耳を塞がせ、陽気な歌を歌わせるという演出のセットアップも、とてつもなく素晴らしい)。ズボンも破けてパンツも見えるくらいズタボロになりながら、ひろしを救おうとしたにも関わらず、自分だけいい恰好をしようとする英雄仕草に対してひとこと言いたくなるのも、さもありなんだ。
男性批判と言うほど断罪的ではないが、内心恐れているのに素直に言葉にせずに、英雄的であろうとする振る舞いに、疑問を投げかけている。そんな手前勝手な行動は、女性にはお見通しなのだ。
1人が犠牲になり被害を最小限にするのではなく、全員が助かるように動くみさえの行動に、やはりグッときてしまう。
まとめ
「クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 〜失われたひろし〜」の感想を綴ってきた。
改めて振り返ってみても、古典映画の引用を用いた娯楽性もありながら、現代的な男女の批評的な目線によって、”今の映画”になっていることに、美点を感じる。
夫婦のエピソードに重きを置かれていることや、先述した批評的な視点が、恐らく子供には伝わりづらいことから、クレしん映画を語る際のトピックスとして本作が挙げられることは、少ない。
これを機に、この傑作の魅力を改めて問いただすことができれば、幸いだ。
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