クレヨンしんちゃん映画にツッコミ不要説
クレヨンしんちゃん映画(以下クレしん映画)のクオリティは、ツッコミ役の出番の少なさに比例するという説を提唱したい。
国民的アニメであるクレヨンしんちゃんについて、詳細な説明は割愛するが、かなり大雑把に要約する。
ジャンルは、バカバカしいナンセンスコメディで、5歳児の野原しんのすけがしょうもないことを言い周囲を振り回すといったところだろうか。
悪役のネーミング(個人的には天カス学園のふくらはぎむくみ)や、カトウコココノカドーなど、秀逸な言葉遊びを用いたセンスを感じることもあるが、しょうもないナンセンスなギャグがあってこそ、ふと友情や家族愛のテーマが立ち上がるとき、強固なものになる。
「大人帝国の逆襲」を筆頭とした影響からか、クレしん映画は、“泣ける”という評判が目立つが、先述した1作は、ただ通り一辺の泣ける描写にはなっていないはずだ。
「大人帝国」のクライマックスにあたる、クレしん映画どころか、日本映画史に残る野原ひろしの回想シーンを例に出そう。
ノスタルジーに浸り切り家族の愛を忘れた男が、記憶を呼び覚ます感動的なシーンだが、ここでは臭い靴を臭うという究極にナンセンスなアクションが施されている。
推論の域を出ないが、ここでしんのすけに何やら聞こえのいいことを言われて、ひろしの記憶が蘇ったとしても、ここまで感動しないのではないだろうか。
靴の匂いを嗅ぐという、バカバカしいナンセンスなアクションによって、当人にとって切実なものが浮かび上がり、どうしようもなく感情を揺さぶられる。
クレしん映画の面白さは、一般的な家族が(今日野原家が一般的な家族と言えるのかという疑問は脇に置く)ナンセンスさを持って、突っ走っていくところにあるはずだ。
ナンセンスの極地から不意に訪れる“いい話”が、観客の心を揺さぶり、結果的に“泣ける”という構図になっているのではないか。
冒頭の提唱に戻ると、ツッコミはナンセンスなギャグを、一般的な価値観により、訂正するという行為だ。
そうすると、ナンセンスさで突っ走りたいところにブレーキをかけることになるので、必然的に物語のテンポは落ちてしまう。
これは、ナンセンスで尖ったギャグが伝わらないことを恐れて、わかりやすく説明している、とも言い換えられる。
さらに一般的な状況に置き換えると、何やらよくわからない人間の話を聞いていると、まともな人が、「彼が言いたいのは〜」と横から解説しているということだ。
それって、めっちゃ恥ずかしいし、なんなら滑っているってことにならないですか?
ましてや観客は映画館という暗闇の中で、集中して作品を鑑賞している。
もっと言うとお金を払って、わざわざ映画館まで駆け付けている。
「まともなツッコミはいいから、というか笑いどころは理解しているから、ふざけたままどんどん話を進めてよ」ってなるのではないだろうか。
クレヨンしんちゃんのように、ナンセンスギャグが横行する状況に、まともな倫理観による訂正など、求めている人はそもそも多くないような。
なぜ、こうもくどくどと書いているかというと、最近のクレヨンしんちゃん映画に一抹の不甲斐なさを感じてしまうからだ。
恐らくクレヨンしんちゃんに登場するキャラクターで最もまともなのは、優等生の風間くんだろう。
決して彼の存在自体を否定するつもりは一切ないのだが、風間くんの登場シーンと作品のクオリティが比例しているのではないか。
風間くんが、エリートに取り込まれた「花の天カス学園」は、クレヨンしんちゃん映画史に残る大傑作であった。
自分の説の提唱に都合のいいケースを持ち出している自覚はある。
ただ、ツッコミがボケを補強する漫才と、ボケを説明もしくは訂正する行為は、似て非なるものだと気付いて欲しい。
最早多くを語る気力もないが、「オラたちの恐竜日記」もかなりまずい出来だった。
ちなみに、来年のクレヨンしんちゃん映画は、インド映画テイストになることが仄めかされている。(ちょっと流行ったテイストを取り入れようという態度がはっきり言って小賢しい)
クレヨンしんちゃん映画の今後を占うのは、才能あるクリエイターを引っ張ってくるとか、そんなこと以前に、映画におけるコメディの本質を考えすぎるくらい考えて捉え直すこと、あるいは風間くんの使い方を工夫することなのかもしれない。
公開時期を夏休みに移行したクレヨンしんちゃん映画は、昨年に続き大ヒットスタートときている。
ヒットしてOKと割り切るのではなく、ちょっとでも黄金期のクオリティに近づきたいという意志を持っていて欲しい。
長々と書いてきたが、クレヨンしんちゃんに限らず、映画界からクドクドとした説明口調のツッコミ文化が根絶することを願って、この拙文を締めることにする。