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他人という鏡の使い方

流れてきたツイートにこういう風に返したのは、自分自身の経験もある。そう、交際経験を積む前の俺は間違いなく「俺は誠実で優しい」人間だと思い込んでいた。

詳細を省くが、自分の心理を思い出すと、その時の俺は何を考えていたのかというと、「こんな酷い人間たちにも交際相手はいる」「俺だったらそんなことはしない」「間違いなく俺は『付き合いやすい』人間のはずだ」…こんなところだろうと思う。

さて、それがどれくらい真実だったかは省かせてもらうが、何にせよ俺は思い直した。「ああ、俺も土壇場になれば『性格の悪い人間』の類だったのだなと」

実践「しない」デメリット

別に無根拠な自信があるのが悪いことではないし、それは行動の原動力になる。ただ、不味いのはここで何も行動しなかったときだ。

メリットとしては自己愛が守られることになる。ただ、ここでのデメリットにも目を背けてはなるまい。「実践しない限り認知のズレが修正されない」のだ。

自称と他称の違いに目を向けよ

本当にあなたが「いい人」になる為には他人が必要だ。何故ならば異常者も人格者も口先だけでなら全く同じように自称できてしまうからである。他人というマシンの構造を知る為というのももちろんあるが、自分自身がどういう挙動をするかすら、想像してるだけだと分からないのだ。


エイブラハム・リンカーンというアメリカの政治家の言で以下のものがある

大抵の人は災難は乗り越えられる。本当に人を試したかったら、権力を与えてみることだ。

恋愛でも仕事でもそうだが、自らが決定をしなければならない場面ではじめて真価を問われる。自分自身が何者であるのかを知る為には他者や社会と触れ合い、自称でなく他称や他己評価を増やしていくべきだろう。その一つ一つがあなたの姿の断片であり、あなたを照らす鏡となる。

評価する側と評価される側というのは相互にイーブンであるし、あなたは別に規範に従っても従わなくてもいい。いい年した大人の行動は自分で決めることが権限上可能である。なので、偶には敢えて評価される側にも立ってみる実践をしてみるといいと思う。自分自身を知る為にも、鏡として、触媒として他人が必要だ。

だから、一歩踏み出してみてほしい。あなたの未来は、あなたを様々な種類の鏡に写し、はじめて道筋がつくのだろうから。

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