ニキタ・マガロフのショパン

ニキタ・マガロフのことを知ったのは、大学を卒業する頃だ。卒業旅行先のパリのCD店で買ったシューマンの交響的練習曲の奏者がマガロフだった。感興豊かでノーブルな音楽。充実した音色。素晴らしいと思った。

小さい頃から慣れ親しんだピアノ。しかし、ピアニストの力量を見極めることは今でもよくできない。ただ、感情にまかせて弾き崩したり、妙なルバートをかけたりするのは好まない。派手さは要らない。一音一音丁寧に音を紡いでいく人の演奏を聴きたい。マガロフはそんなピアニストの一人だ。

これまで、ショパンはあまり好んで聴いてこなかった。ベートーヴェンの意志の力、シューベルトの孤独、シューマンの幻想と狂気、ブラームスの悲哀と深淵さに惹かれていた耳には、ショパンの悲しみや激しさは何となく薄っぺらく聴こえた。

もしかすると、ピアニストが己れの技巧を披露するだけのショパンを聴いた経験のあるから、そうした気持ちになったのかもしれない。コンクールで名を上げた人が満員の聴衆の前で、難曲をガシガシ弾く。熱狂した聴衆は曲が終わりきらないうちにスタンディングオーベーションでピアニストを讃える。自分はこうした演奏会が好きになれない。

どんな素晴らしいピアニストでも、年齢を重ねるうちにテクニックに陰りが出る。次第にショパンから遠ざかる。しかし、本当に聴きたいのは歳を重ねた渋味のあるピアニストがじっくり奏でるショパンなのだ。

ニキタ・マガロフが60代でフィリップスに録音した一連のショパンのソロ作品は実に素晴らしい。基本的に客観的な姿勢を崩さず、美しい音色で一音一音丁寧に奏でられる上質なショパン。基本はイン・テンポ。聴き手の望まないルバートやアッチェランドをかけないのがいい。20世紀前半の大きな変革期に生きた音楽家の人間性が音楽に表出されるのを良質な録音で聴くことができる。

幻想即興曲。やたらと速く弾く人が多い中、マガロフはとても丁寧に音を紡ぐ。一音一音にムラがない。長調に転調した中間部、ここまでゆっくり弾く人はいない。

ノクターン第1番変ロ短調。マガロフはゆったりと弾いていく。一音一音噛み締めるように。特に弱音になると引き込まれるような魅力に満ちているのだ。

ノクターン第20番嬰ハ短調。「戦場のピアニスト」でも流れたこの曲は、ショパンの作品の中で、個人的に数少ない好きな曲だ。ここでもマガロフは決して弾き急がない。弾き手の気品の良さが滲み出てくるような演奏に、不思議と聴き入ってしまう。

正直なところ、この人以外のショパンはあまり聴く気が起きない。

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