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愛聴盤(14)マレイ・ペライアのバッハ

バロック期以前の音楽演奏において、演奏家のアプローチが大きく分かれて二つある。

作曲家が生きていた時代の楽器とその奏法で演奏する古楽器の演奏と、現代の楽器で演奏する演奏である。前者の手法は、1970年代以降に優秀な演奏家が次々と頭角を現し、ファンの多くが、「そうか、これが当時の音楽の姿であったのか!」と開眼したに違いない。古楽器演奏の旗手たちは、従前の演奏に比べて、きびきびしたテンポと、独特の音楽言語を持ち、古色蒼然とした厳めしい演奏とのコントラストを打ち出した。

私がクラシック音楽に傾倒し始めた80年代中盤。ニコラウス・アーノンクールやグスタフ・レオンハルトは、既にその評価を確立していたし、トレヴァー・ピノック、クリストファー・ホグウッド、エリオット・ガーディナー等は新進気鋭の演奏家として名を馳せていた。

しかし、私個人は、その演奏のすべてを受け容れられたわけではない。例えば、ヘンデルの「メサイア」の個人的ベスト盤は、ホグウッド盤(捨子孤児院版)なのだが、J.S.バッハの「マタイ受難曲」では、古楽器の演奏でしっくりときた演奏に出会っていない。一言で古楽器による演奏と言っても、最近の演奏は、従前のエッジのきいた演奏は影を潜め、まろやかで、滑らかな演奏が多くなった印象がある。

ハープシコード(チェンバロ)という鍵盤楽器だけを取り上げても、ヘルムート・ヴァルヒャが弾いていたアンマー社のモダンチェンバロもあれば、当時の楽器を復元したものもある。正直言って、私は、このあたりの事情に明るくない。チェンバロの音は、実に古雅である。しかし、オーディオ装置の良し悪しによっては、高音がきつく聴こえることがある。一方で、現代ピアノは、弾き手によって文字どおり強弱(ピアノ・フォルテ)を使い分け、細かいニュアンスをつけやすい。

今回の記事で取り上げるのは、現代楽器のピアノによるバッハ演奏である。当然、バッハが生きていたころには存在しなかった楽器であるが、クラシック音楽に長く親しんでいる人なら、バッハの鍵盤音楽演奏には、グレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」や、スヴェトスラフ・リヒテルの「平均律クラヴィーア曲集」など、世界遺産レベルの偉業があることを知っているはずだ。

こうした演奏に触れると、その演奏が歴史的アプローチとして、正しいか否かを論ずることが無意味に感じてくる。

筆者の悪い癖で、前置きが長くなってしまった。今回の記事は、マレイ・ペライアのバッハ録音についてである。彼が手の故障によって、いったん演奏活動を休止した後にSONY Classicalに録音した一連のバッハ作品。協奏曲とソロ曲のCD計8枚あり、いずれも、この演奏家の円熟期に録音された素晴らしい音楽である。

私は鍵盤楽器の歴史に詳しいわけではなく、音楽家・演奏家でもないが、音楽を心から愛する者の一人として、ペライアの弾くバッハに、心を揺さぶられる。グールドは、独自の言語と乾いた音色でバッハを語る。リヒテルは平均律クラヴィーア曲集を巨大な山脈のように描く。それに対し、ペライアは、誰が聴いても「美しい」と感じるはずだ。音色はもとより、確実なテクニックからくる自然な流れ。一音一音が実に味わい深い。

そうだ。ペライアの音楽は、「深い」という表現が相応しいだろう。

英文の解説書によると、彼は指を切ってしまい、それが原因で一時期演奏活動を休止していた。その間に、家の中でハープシコードを弾きながらバッハを研究したそうだ。このプロセスを経て、「ハープシコードの真似にならないこと」や「ロマンチックにならないこと」に注意を払いながら、バッハに宿る自身の声をピアノで表現するという時間のかかる作業を経て、これらの演奏に至ったのだ。

イギリス組曲6曲、パルティータ6曲を聴くと、偉大なピアニストにとって、自身の音楽を十全に表現するためには、やはりグランドピアノが必要かであったのだと感じさせる。

極めて美しくありながら、ロマン派的なレガートを抑制し、熟慮に熟慮を重ねて生み出された骨太な音楽である。演奏家の叡智がギュッと詰まったバッハ。何度聞いても、ため息が出るほど素晴らしい。

私にとって、今後の人生に無くてはならないディスクである。

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