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#69_「評価しやすいもので評価しているだけの現実があること」を知っておく

いろんな学校(特に中学校や高等学校)のパンフレットを見ることがあります。そこには、必ずといっていいほど「進学実績」が載せられています。「〇〇高校〇名合格」「〇〇大学〇名合格」といった言葉が並んでいます。

学期末には通知表が子どもたちのもとに届きます。そこには、必ず「観点別評価(A~C)」と「評定(5~1)」が記載されています。

このように、学校という場には「測定」が存在し、その測定結果は「数値」で表現され、その数値が学校や個人の「評価」と同値であるとみなされるというメカニズムがあります。

このメカニズム自体が「よい/よくない」ということではなく、このメカニズムを、私たちひとりひとりが、そして、子どもたちひとりひとりがどのように捉えていくのか、というところにポイントがあるように思います。

私自身が大事にしたいことは「評価しやすいもので評価しているだけの現実があること」を知っておくことです。

いちばん簡単に評価できるものしか測定しない
人間には、もっとも簡単に測定できる要素に焦点を絞ることで問題を単純化するという性質がある。たがもっとも簡単に測定できるものがもっとも重要であることはまれで、実際にはまったく重要ではない場合がある。これが、測定基準の欠陥の中で第一の要因だ。
これに近いのが、求められる成果が複雑なものなのに、簡単なものしか測定しないというものだ。ほとんどの仕事には複数の責任が伴い、ほとんどの組織には複数の目標がある。たったひとつの責任または目標に測定を集中させることは、しばしば欺瞞的な結果につながる。

ジェリー・Z・ミュラー(2019)『測りすぎ-なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』みすず書房、p.24

「進学実績」は、測定しやすいです。合格者数を数えるだけで算出することができます。

観点別評価や評定も、ペーパーテストに基づいて算出するのであれば、簡単に出すことができます。

誤解のないようにくりかえしますが、「進学実績」や「観点別評価」や「評定」そのものが「よい/よくない」という話ではありません。これらの「数値」をどのように捉えるかという話です。

前出の『測りすぎ』には、このような言葉もあります。

(中略)重要なことすべてが測定できるわけではなく、測定できることの大部分は重要ではないからだ。

ジェリー・Z・ミュラー(2019)『測りすぎ-なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』みすず書房、p.19

こんな考え方を頭の片隅に入れておくといいのではないでしょうか。

「評価しやすいもので評価しているだけの現実があること」

「重要なことすべてが測定できるわけではないこと」

「もっとも簡単に測定できるものがもっとも重要であることはまれで、実際にはまったく重要ではない場合があること」

これらを議論の前提とするとき、私がまだ答えを出せずにいる問題(悩み)が頭のなかにのぼってきます。

それは「探究の評価をどうするのか?」という問題です。

子どもたち一人一人の探究を「評価」しようとするとき、私たちは一気に迷宮のなかに足を踏み入れてしまいます。いつ、どこで、誰が、何を、何のために、どのように評価すればよいのか。難問です。今はまだ、解ける気がしません。解く/解かないの前に、どのような問いを立てればよいのかも見当がつきません。

しかし、子どもたちの探究は、今も続いています。

「探究が大事だ」という価値論

「こういう探究をするといい」という内容論

「こんなふうに探究するといい」という方法論

いずれも、いろんな人たちが、いろんなところで、いろんな主張をしています。

でも、価値論も内容論も方法論も、すべては「評価論」があってこそバラバラにならず、接続され、連関していくものであるはずです。

もし「探究の評価」の原理を解明することができれば、それはきっと「探究以外の場での評価にも大きな影響を及ぼすものになるはずです。

私はこの難問に、人生をかけて答えを出してみたいと思っています。

……と、大それたことを書きつつ、今、手元には、こんな本があります。

「心の扉の強度」は?

「一目ぼれの電圧」は?

「本能と理性の温度差」は?

付け加えておきたいと思います。

「子どもたち一人一人の探究」は……?

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