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#49_「として」の構造

学校の教育活動を考えるとき、「として」の構造を大切にしたいと思っています。これは、キャリア教育や総合的な学習の時間の在り方を考えるとき、特に大切にしたい考え方です。

「として」の構造とは……?

総合的な学習の時間のカリキュラムを例に考えてみましょう。総合的な学習の時間をどうするのか、頭を悩ませている学校も多いのではないでしょうか。総合的な学習の時間には「教科書」がありません。それゆえ、総合的な学習の時間のカリキュラムをつくるということは、「総合的な学習の時間のオリジナル教科書をつくること」と近似的な意味をもちます。総合的な学習の時間のカリキュラムをうまくつくることができないとき、「総合的な学習の時間」は「総合的に都合のいい時間」へと形を変えていきます。

「合唱コンクールが近づいてきたけど完成度が上がらない」「それじゃあ、総合を使おうぜ」

「文化祭の準備の時間が足りない」「それじゃあ、総合を使おうよ」

「修学旅行の班編成でもめてる」「そんなときは、総合の出番だ」

「教育相談をしなきゃならないのだけど、予備時数がもうないよ」「大丈夫だって、総合があるから」

……こんな感じです。「総合的な学習の時間」は「総合的に都合のいい時間」にすぐに変身してしまうのです。

「総合的に都合のいい時間」として使ってしまうということは、そもそも学校全体のカリキュラムに無理があるということです。

こんなとき、「として」の構造が大切になります。

総合的な学習の時間のなかで、合唱コンクールの練習、やっていいのです。文化祭の準備、やっていいのです。修学旅行の班編成、やっていいのです。教育相談、やっていいのです。

ただし、そこには、条件があります。

「探究としての合唱」「探究としての文化祭」「探究としての修学旅行」「探究としての教育相談」になっていることです。

この条件を外してしまったとき、「総合的に都合のいい時間」は、ひょっこりと顔を出し、我が物顔で居座ることになります。私たちは、それを許してはいけないのです。それを放置してはいけないのです。「総合的な学習の時間を通して探究する権利・探究を味わう権利・探究を楽しむ権利」が子どもたちにあるからです。総合的な学習の時間を「総合的に都合のいい時間」として使ってしまうとき、ちょっときつい言い方にはなりますが、子どもたちの権利を侵害してしまっているのです。

数学科の先生が、「先生、数学の授業、教育相談でもらうね」と言われたら怒るはずです。

国語科の先生が「先生、国語の授業、文化祭の準備で使うね」と言われたら怒るはずです。

総合的な学習の時間には「総合の先生」がいません。まったく違う活動に振り替えられたとしても、率先して「怒る」人がいません。同じようなことは「学級活動」や「道徳」にも言えるかもしれません。

私は、総合的な学習の時間が「総合的に都合のいい時間」に安易に振り返られていくことが、どうしても許せない。どうにかして、なんとかしたい。総合的な学習の時間を守るためには、つまり、子どもたちの探究する権利を保障するためには、総合的な学習の時間のカリキュラムをきちんと打ち立てなければならない。でも、「総合的に都合のいい時間」として使ってきた学校は、「振り替えありき」で教育課程を組んでいることが多い。だから、総合的な学習の時間のカリキュラムを考えるということは、学校全体を視野に入れて、教育活動を整理整頓していくことと近似していく。「総合の先生」は、まさに言葉通り「学校の先生」になる必要がある。「総合的な学習の時間」の教員免許状はなく、誰もが「総合の先生」にならなきゃいけない。そうだとすれば、誰もが「学校の先生」にならなきゃいけない。過大な要求・期待かもしれないけれど、「総合的な学習の時間」を大切にする・守り抜くということは、そういうことなのだろうと思う。

……ちょっと熱が入ってしまいました。



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