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#13_「育てる」から「育つ」へ

「ナスビの学校」にいる教師は、自分の言葉づかいに敏感です。それは、自分の言葉づかいが、自分の教育哲学・教育思想と強く結びついていることを理解しているからです。

私は文化人類学者・辻信一さんの著書をよく読みます。辻さんの著書『「しないことリスト」のすすめ』には、次のような一節があります。

社会はこれまで、子どもがぶつかるかもしれない問題を迂回し、あるいは先回りするようにして、プログラムやマニュアルをつくり、与えてきた。そしてそれが効率的な教育だと多くの大人たちが考えてきた。しかし、効率性とか便利さというものは、じつは子どもから失敗するチャンスを奪うことを意味する。子どもたちは失敗を通じて学ぶもの。失敗こそが学びの機会。その機会を大人たちは奪ってきたわけだ。

子どもたちが手間ひまをかけて試行錯誤するのを、辛抱強く待っていてあげることが、もう大人たちにはできなくなっているのかもしれない。(中略)生きものは「成長させる」のではない、「成長する」のだ。「大きくする」のではない、「大きくなる」のだ。子どもは「育てる」のではない、「育つ」のだ。病は「治す」のではない、「治る」のだ。

だからといって、もちろん、農、教育、医療という人間の営みが、不要になるということではない。もう一度、「なる」ちう原点に戻った上で、自分たちが何を「する」べきなのかを、考え直そうというのだ。

使役形の言葉づかいをする教師は「身につけさせる」「聞かせる」「話させる」「座らせる」「静かにさせる」「移動させる」「歌わせる」「走らせる」「読ませる」「書かせる」といった表現をします。学校でもしばしば耳にする言葉づかいです。使役形の言葉づかいの根底には「子どもたちは操作可能な対象である」という考え方が潜んでいるのかもしれません。「教師側からこういう働きかけをすれば、子どもたちはこんな反応を示し、こんなことができるようになるだろう」という考え方です。この考え方そのものを否定するつもりはありません。むしろ、このような考え方にもとづくパターンを持っていなければ、教師は日々の仕事をやり遂げていくことは難しくなるでしょう。

使役形の言葉づかいの必要性を認めた上で、そうではない言葉の使い方があるという余白を持ちたいものです。

「身につける」「聞く」「話す」「座る」「静かにする」「移動する」「歌う」「走る」「読む」「書く」……。

子どもたちを主語とした言葉づかいを、意識してやってみるのです。

すると、たとえば、「子どもたちが聞くようになるには(聞けるようになるには)どうすればいいのか?」と問うことにつながります。そしてその問いは、教師に「工夫の余地」をもたしてくれます。「アイデアの発酵」をもたらしてくれます。

「ナスビの学校」にいる教師は、自分の言葉づかいに敏感です。それは、自分の言葉づかいが、自分の教育哲学・教育思想と強く結びついていることを理解しているからです。

子どもたちを主語とした言葉づかいは、子どもたちが自分で成長していくことを信じ続けよう、そして、そのために教師にできることを工夫してみようという教育哲学・教育思想と強く結びついていきます。

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