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DIARY IN RHYTHM OF ANCIENT CHINA

七十二候のリズムで日記をつけることにした。

一年はあまりにはやい。
時間が砂のようにさらさら手指から流れて進むことに、どうにも漠然とした無力感や感傷的な気持ちをおぼえてしまう。時は止められなくても、どうにかましにする手だてはないかしらと、五十二週ではなく、七十二候をもうひとつのサイクルとして意識することを、おととしの年末に思いついた。

半月ごとの季節の変化をあらわす「二十四節気」を、さらに約5日ごとの3つの期間(初候・次候・末候)に分けて、細やかな季節のうつろいを教えてくれるのが「七十二候」(しちじゅうにこう)。古代中国で考案された暦のひとつらしい。

わたしはいわゆる「ていねいな暮らし」をしたいと思ったことはない。友人と「ファッキン・バターケースっていうバンド名もよくない?」とわらって話していたくらい。気の向くままに暮らしたいとおもう。したいことを、したいときに、したいだけしたい。
だから、高い意識をもって古来の暦に向かったわけではないけれども、やっぱり温故知新というのか、ちいさないいことがいくつかあった。

七十二候は、窓の外の自然のちいさなきざしを繊細に教えてくれる美しく短い文章でもある。今どこかで、春を迎えに巣ごもりの戸をひらく虫がいるのだ。たしかにきのうは虹がみえたな。そういえば、としずかに浮かぶ日常のなにげない風景とその空気が、自分の心にすんと落ち着くみたい。
かつてのだれかの観察の濃やかさを感じて、自分の毎日の解像度もつられてすこし高まるような気がする。停滞感を感じるときでも、空気はいつでも動いて世界はゆっくり進むのだとおもいなおす。

じっさいなんといっても、月や週で暮らしているときには12周や52周だったものが、24周や72周になるので、なんとなく得したようなかんじがする。関西人の性かもしれないけれどおおいほうがおトクだ。
ブルーマンデーで気が重いとか、まだ週の中日で今週は長いなあ、とか、俗世塵界のどんよリズムからすこしだけ自由になるためのちいさな手だてにもなってくれる。
もちろん曜日を捨てるのではなくて、いいとこどりをしていく気まんまんなのだけど、オルタナティブをもつことはゆたかなことだ。

あたりまえのような四季ですら、はじめからあったものではなくて、ひとが自然を理解しやすくするために考え出した名前なのだという。
名づけることは、みつけること。
発見は愛だとおもう。
どんだけやる気がなくっても、5日にいっぺんくらいは、なにかを発見できたらいい。

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