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贅沢な花畑で。

※これは、2020年12月31日に書いて、なぜかずっと下書きにあったもの。コロナ禍で、まるで分厚い透明な蓋をかぶせられているような日々の中、悩みまくっている私のことが書かれています。表現に迷いますが、あの頃の、とてもみずみずしい私にもう1度会えたような気がして、今回4年の時を経て思い切って公開しちゃいます。



どっしりと根をはるのが怖い。ずっとこの場所に住み続けるだとか、あと30年同じ仕事するだとか、毎日のルーティンを決めることや誰かと一生一緒にいることさえも。ビビってる、ほんとに。

散歩が好きで、よく堤防に出かける。自分の住んでいる街よりほんの少し高い場所にくると、何故かほっとする。目の前がひらけて空が近くなると、ようやく息が吸えるような感覚。日常は私の中で”とにかく戦っている”部類に入るんじゃないかと、最近になって思う。

私らしく生きる、には意外と覚悟と体力が必要だったし、流れに任せてゆるっと生きることも、自分と向き合う作業をしないと無理。誰かの顔色を伺うことはデフォルト気味だし、思い切るときはいつも家族の顔が浮かぶ。

贅沢だ、私は。

戦ってるのは他人とじゃなくて、結局自分。いろいろな楔を身に纏って、細い綱の上を歩いているよう。その中で、癒しを得るために必死だ。だからこそ、物理的に離れて、息の吸える場所を探している。

私はこんな贅沢な花畑の中で、一体何を求めてるんだろう。



“万物は終わりがくるからこそ美しい”という考え方が好き。辛くもがいた青春時代が、いつか綺麗な思い出に変わるように、終わりまでに燃やす炎を美しいと思う。振り返ったときの「恋しさ」までもが好きだ。私が映像を撮り始めたのも、そんな2度と訪れることのない瞬間を切り取って、後で見返したときの恋しさを渇望しているからなのでは、とさえ思う。

終わり、というものの中でいうと、夕方の時間が一番好き。朝活という言葉があるように、なんとなく朝活動できるほうが良いような感じがするけど、私はだんだん暗くなっていく瞬間、自分もそこに溶け込んでいく気がして、夕方から夜にかける時間が一番安心する。沈んでいく夕日はいつも私に、そうだ。終わりはくる、大丈夫だ。と思い出させてくれる。

私はなんでこんなに、終わりを求めているんだろう。


まだ私は永遠が怖い。でもそれは、誰もが寄り添ってくれる、新しい光が次々と生まれる、恵まれた花畑の中だからこそなのかもしれない。旅の終わりに寂しさと安堵があるように、安全な場所だからこそ終わりを求める、孤独を探せるのかもしれない。

いつか、一生、この先ずっと、終わらないでと何かを望むことができるようになるのかな。その時私は、そんな自分になれてよかったと思うのかな。



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