見出し画像

なにもわかりたくなかった

好きとか、嫌いとか、よくわからない。だけどそれがなかった世界より、その人がいなかった世界より、今の方がちょっとだけいい。その世界の方がうつくしく見える。そういうことの連続で、世の中はまわっているのではないかと思う。自分とはまったく関係のない、ただ遠いだけのことにいちいち感情を乱されている自分に気づくことが増えてしまうから、ほんとうは出会いたくなかった。でも、今見えているものぜんぶ、出会えたひとみんな、そこに在ってくれてよかったなと思う。わたしのことは、わたしがいちばんわからない。

今自分が考えていることや、自分の中に燻っている気持ちをあらわす言葉がなにもない。きっと世界中を探せばあるのだろうし、見つける手段もあるのだろうけど、わたしの拙い言葉と足りない語彙力では言い表せないのだと思う。ぜんぶ知られたいわけではないから、それはそれとして理にかなってはいるのかもしれないけれど。

無理やり表現するのならば、わたしはいつも人間という生物から隔離されているような気がしていて、そういう離人感みたいなものが、相手にどんな感情を抱いたときにもわたしの邪魔をする。人間と人間の間にはいつも砕くことのできないガラスがあって、それを壊すことも受け入れることもできないまま他人と接しているんだと思う。ガラスに隔てられているから、ガラス越しにてのひらを合わせることはできても、手を繋ぐことも、体温を感じることもできない。

もしかしたら、それが人間でさえあればだれの手でも同じなのかもしれない。この離人感はいつもわたしにつきまとっている。他人に対するガラスがどれだけ分厚いかなんていちいち表現していられない。そのくせ、自分にとってとても重要なことが相手にとってさほど重要じゃないんだろうと想像するだけで気が狂いそうになる。自分が手にし得る限りのすべての祈りを捧げるほど大切で必要なひとやものは、必ずしも相手にとってもそうであるわけではないということ。そういうのを乗り越えて生きている人間たちをガラスに挟まれたはるか遠く離れたところで見ながら、結局はわたしがいちばん人間で、人間に対する執着心が恐ろしいのだ、と思う。

ガラスを隔てた先にいる人間を好きになったり、大切に思ったりするということは、そもそも論理が破綻しているような気がしてならない。人間の力では砕くことのできないガラスに隔てられながら、すべてを理解したような気になってその人間を大切に思う。自分の人生のなかの大きな存在であると信じて疑わないその傲慢さは、ある意味で人間の愚かさを象徴している。他人と自分が分かり合うことなど、ほぼ確実に不可能だ。

自分の抱いている大切というものの概念はどんななんだろう。だれかやなにかを大切に思うことがあまりにも少なすぎて、うまく言葉にならない。ただ、わたしが抱え込んだ感情に口出ししてくるわたしの数が多くなる。「そんなの無意味じゃん」「あんたごときがそんな気持ちでいていいわけないでしょ」「中途半端に期待するとろくなことにならないの自分がいちばん知ってるくせに」それに対してうるせーわたしの勝手だろ、と言えるほどわたしはいい子じゃない。わたしの本体はわたしの感情なのかもしれない。

あなたのいやなことをぜんぶ破り捨ててしまいたい。いちど手をつないだら二度と離せない。だれかと一緒に過ごすことで自分の人生の陳腐さに引け目を感じてしまう。もうずっとどこへも行けないような気がする。わたしはここで終わりだ。

ずっと、心の奥で何かを叫んでいる。必死に聞こえないふりをしているわたしもまたわたしの一部だ。ほんとうは、ほんとうはなんて言っているのかぜんぶ知っている。震えを噛み殺している。だけど、それを知りながら、それでもわたしはわたしを遠くから見ている。鼻で笑っている。具現化した感情を振り回しているわたしもいる。何が正しいのかわからない。ずっとわからない。ほんとうにわからないのではなくて、ずっとわからないふりをしているのかもしれない。わたしのきもちじゃない。どこから来たのかもわからない。この意味のわからないきもちから救われたい。

これから先ずっとガラス越しでもいいから笑ってほしい。あなたのいやなことはぜんぶわたしに預けてほしい。わたしの知らないところで、あなたの人生を動かさないで。祈らずにはいられない。どうかわたしになにもわからないように生きてほしい。そうやって生き延びて、あなたはあなたの神に祈り、愛を囁いてガラス越しの幸せを手に入れてくれ。

ああ、ガラスを突き破ってそちら側に行きたいと思うこのいのちにぶら下がるような重たい感情が、愛情だったらどうしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?