北見市移住日記004「移住を決めたわけ」
4月25日、家族(妻一人娘一人)を三鷹に残し、単身妻の実家の隣町である北海道北見市に移住した。これまで単身赴任も転勤も経験したことのない自分にとって、一大決心ではあったけど、勢いに乗ってここまで来てしまった。
不動産会社さんから最初に図面を送ってもらって一目ぼれして、一回の下見で決めた家(事務所兼住居)は、1ヶ月もかかったけど、ようやく整って暮らしを始めたばかりだ。
移住の目的は、妻の実家(網走郡津別町)で一人暮らしをしている90歳の義父の近くにいるためだ。年齢が年齢なんでね、寄り添うと言うとカッコ良すぎるけど、つかず離れず、何かあったら飛んで行ける距離にいようってわけだ。車で30~40分はかかるんでスープは冷めちゃうと思うけどね。
義父もまだ介護は不要で、「自分のペースで暮らしたい」という意向もあるようだし、ボク自身もまだまだバリバリ働きたいと思っているんでね。津別町と北見は絶妙な距離感かもしれない。
月に数回のペースで通って様子を見、一緒に食事することを当面続けようかと考えている。引越の片付けがあったのと、まだ車がないんで(7月に納車予定)、このひと月では姪に送ってもらって行った一回だけだったけど、まあしょうがないかな。
無骨な義父なんで、表情に表す方じゃないけど何だか安心したような、穏やかな様子が印象的だった。
ボクの仕事は、組織変革コンサルタント・エグゼクティブコーチ・研修ファシリテーターで、コロナ禍のこの一年以上は、仕事が激減し、残った仕事も完全にオンラインに切り替わったことが、この時期に移住を決断させたと言っていいと思う。
現在、北見市の事務所にオンライン配信スタジオを構築中で、今後ともオンライン限定で展開していくことになる。コロナが収束(終息?)した時にオンラインでの仕事がどうなるのかは、正直分からないけど、できるだけの投資をし、工夫をしてリアルに迫る、プログラムによってはリアルを超える仕事ができるようにしたいと考えている。
数社の役員を務めているんだけど、皆さんに「オンラインでもぜひ」と言っていただいていて、継続していくことになりそうだ。
しばらくは完全にオンラインというわけにはいかない仕事もあるので、北見と東京を往復する二拠点生活をしていくことになる。
【決断に至った思いと背景】
妻は、三姉妹の長女で、次女と三女は嫁いでおり、我が家が跡継ぎという立場である。
40余年前に結婚して以来、実は、ずっと家を継いでほしいと要請を受けてきたんだけど、自分の仕事を優先してのらりくらりとかわしながら過ごしてきていたんだ。
義父の仕事は林業。
津別町は「木」の町で、実家も山を持っている。
しばらく前のこと。
津別に帰省している折、義父が「誠一、車に乗れ」と言う。
言われるままに乗り込み、しばらく走って降りると、目の前には山があり小さな苗木がビッシリと植えられていた。
「あっち(右手)から、こっち(左手)まで、見える範囲がお前の山だ」と義父が言う。
植えられている木について聞くと「町の人たちに手伝ってもらって、お前のために植えておいた」と言うではないか。
あの時の衝撃は、今でも忘れられない。
「見える範囲がお前の山」「お前のために植えておいた」
何たるインパクト。
義父も一大決意でボクを連れて行き、話したんだと思うけど。
ちょうど会社を立ち上げたばかりで、その要請を受けることができなかったんだ。
「無理だったら、名前だけでも継いでほしい」
との要請を、またしてもボクの仕事の都合と、娘が自閉症で環境を変えることができない(これもけっこう重い理由のひとつ)という理由で、先送りし続けてきた。
それは妻も納得していたことではあるんだけど、自分の中でずっと後ろめたい気持ちを引きずりながら来ていた、人生最大の難題だったんだよね。
4年前に義母が他界した際にも、葬儀では心の中で「期待に応えられなくて申し訳ありませんでした」とお詫びしていた。
義父が一人暮らしになり、一歳年を取るたびに、胸が締めつけられる思いで過ごしていたんだが、どうにも決心がつかず何もすることができなかった。
リーマンショックで業績が最悪になり、多額の借金をし迎えた経営危機を、やっと全額返済し乗り越えたと思ったとたん、4年前に体を壊し(心臓)、手術をし1年間を棒に振り、仕事のペース、経営のペースを崩してしまっていた。
正直、妻の実家の後を継ぐとか、義父の面倒を見るどころの話ではなく、自分が生き残るのが精一杯という状況に陥ってしまっていたという事情もある。
そんな状況にありながらも、ずっと支えてくださったお客様と、応援団の皆さんの激励の賜物で、なんとか復活の道を歩んでいたところだったんだ。
そこにやって来たのが新型コロナウイルスである。
大口のコンサルの仕事は、一時休止または解約となり、リアルな研修は皆無となり。
数少ない仕事もすべてがオンライン対応を余儀なくされた。
オンラインでの仕事が常態化したことが、移住への背中を押したのは間違いない。
幸か不幸か、大口の契約がなくなり身軽になっている状況と、オンラインで仕事をしている状況で、東京にしがみついている必要性が低くなった状況で、義父の90歳という年齢と自分の63歳という年齢。後がない。これはもう「今しかない」と移住の決断に至り、妻にその気持ちを伝えたというわけなんだ。
義父に東京に来てもらうか、施設に入ってもらう道もありえたわけだけど、義父にはその気持ちはまったくなく、このまま愛する妻の父を孤独死させてしまったのでは、一生後悔すると思い決断した。
【妻と娘のこと】
4年前から、色々な環境の変化に襲われたわけたけれども、ちょうど同じタイミングで網走の義母が亡くなった。
その時から妻は、朝晩一日2回30分間、パソコンの不調の時を除いては一日も休まずスカイプで一人残された義父との会話を続けてきた。自分なりの役割の果たし方と思ってのことなんだな。
一日も休まず続けている妻の姿には頭が下がり、これは何とかしないとという気持ちはますます強くなった。
今年に入ってから、「このタイミングで、北海道に移住しようと思うがどうだ?」と切り出すと、妻はすぐには賛成しなかった。そんなに簡単な話ではないからね。
・気持ちはありがたいが複雑だ
・父とは今の距離感がちょうどよい(近くにいたらいたで色々問題もある)
・娘(自閉症)が移住のハードルになる
・あなた(今野)の仕事にとっては非常にマイナス
・自分も今になって北海道というのはイメージがつかない
・物理的にもとてもハードルが大きい
途中は省略するけど、3ヶ月かけて何度も話し合いを重ねて、移住することでまとまった。
退路を断つ(戻ってこない決意で)意味で、三鷹の自宅のマンションも売却することに決めた。
行動を開始したボクらだったが、案の定妻の懸念は的中。
娘のことが一番のハードルになった。
移住計画を伝えると、娘はこれまでに無いほどのパニックを起こし、取りつく島がない状態になってしまった。「絶対に嫌だ」「三鷹を離れたくない」「作業所を辞めたくない」
説得は全く功を奏することなく、状態は悪化し、ある時などは半狂乱で「もう生きていたくない」「もう嫌だ」「死んでしまいたい」と心を閉ざすようにまでなってしまった。
これまでの引越でも同様で、時間をかけて落ち着くのを待ってということを繰り返してきていたから、ある程度想像はしていたが、ここまで頑なとは思わず自分の考えが甘かったと、少し気持ちが落ち込んで移住計画を前にひるんでしまった。
しかしながら、引き返すことはできない。
結局娘の説得を断念し、娘が三鷹に居続けられて、かつ北海道の高齢の義父の近くにいられる道を模索した結果、自分だけが単身移住する結論となったというわけだ。
発達障害の娘は独り暮らしができない。
したがって、妻も娘と共に三鷹に残るのはやむを得ない結論だった。
【移住してから考えよう】
一家で義父の近くに移住する決断が、最後には自分だけ移住するという不思議な結論になり、一人暮らしをしたことのないボクは、正直ビビりの中にいた。大いに逡巡した。これからのことを詳しくイメージすればするほど決断がにぶり、行動できなくなるので、深く考えないことにした。
北見に行ってしまってから考えよう。
そう決めて、一気呵成に準備を進めた。
自分はどこまでもGOOD&MORE。
この決断が、飛び込んだこの境遇が、自分にGOODをもたらすとしたら、いったいどんなことだろうか。
それをまずは考えるようにした。
そして、状況をもっとよくするには自分は何をすればよいか。
それを考え抜いてきたことをこれから、ひたすら実践していこうと思う。
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