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「カサンドラと発達障害とHSPの話」を終えて

昨夜、ツイッターのスペースにてHSPや発達障害について何名かの方と情報・意見交換を行ったので、内容を振り返りながら考えをまとめてみようと思う。

昨夜の対話の中で、「アスペとHSP、どっちの方が接していて楽?」という面白い質問があった。

以前私は、ASDの方の思考法や話法、感性を学びたいと思い、ASDの方々が集うスペースにたまにお邪魔していた。そんな私の様子を眺めていた方からの質問だった。ちなみにアスペースにお邪魔したときの話は↓

言うまでもなく、私はHSPみのある人と接する方が楽である。こちらから求めなくても大体同じ温度の気遣いや気配りをしてくれるし、多くを語らずとも察し合いながら物事をスムーズに進行できるからだ。

さらに、HSPみがある方の中でも自分軸を獲得した相手の方が相性がいい。おそらく私自身がそうだから。結局は類友なのだと思う。

一方、「アスペ」と名乗る方々との対話は、私にとって「仕事での会議」に臨むような気分である。きっとアスペの人々が擬態するときはこんな感じなのだろう。異文化への擬態は疲れる。

とはいえ学びがたくさんあるし、発見や気づきもたくさんある。彼らを通して自分自身を知る機会も多い。

そして、これはおそらく相手のタイプや性格によるのだが、確かに「楽」と感じることもある。なぜなら気をつかう必要がほとんどないからだ。普通なら相手に失礼な言葉も、彼らはほとんど気に留めない。

「今日のあなた、喋りすぎでうざい」と言われたら、多くの人は攻撃的な言葉と感じて多少なりともムッとするだろう。あるいは萎縮してしまう人もいると思う。

ところがアスペはそういった言葉の含蓄まで深読みせず、シンプルに「喋りすぎてうざいと思われているんだな。じゃあちょっと黙ろう」というふうに受け止める人が多い印象である。

ところが、そうしてアスペが黙りこくると、定型からするとまるで「無言の抗議」のように見える場合があり、アスペに対して「ひねくれた奴だな」とか「嫌味ったらしい奴だな」という評価を下してしまうことも。こうなってくると、「うがった解釈をする定型うぜええぇぇぇぇ!」とアスペが思うのもわかる気がする。

話を戻し、言葉だけでなく立ち居振る舞いや礼儀礼節、マナーやデリカシーなど、あらゆる面において(定型に比べて比較的)緩く見える彼らと一緒にいると「自分は普段、こんなにも周りに気をつかっていたのか」と気付かされることがある。

たとえば友人と自宅で一緒に過ごすとき。いくら親しい相手でもマナーとして飲み物や茶菓子を出したり、友人が退屈しないようムードを作ったり楽しい話題を提供したりするのは何も不自然なことではないだろう。

ところが親友の一人であるASDみのある友人と一緒に過ごすとき、私はそれをしない。「飲み物?冷蔵庫から勝手に取って」と言うし、沈黙が訪れても無理に話を振らないし、なんならその友人を放ったまま自分の好きなことを始めたりする。昔からそうだ。彼に気遣いや配慮をしても何も響かないので、とうの昔にそれをやめたのである。そして彼もそんな私を咎めない(というか気にしてすらいない)。

こういう「気をつかわない空間」は肩ひじ張らないので、確かに「楽」と感じることがある。

そんなわけで、ASDにしろHSPにしろ接していて楽かどうかは「相手または場合による」が答えである。

ところで、昨夜お話しさせてもらったうちの2名は、ご自身にHSP的な傾向があると自己分析されていた。実は彼らに対しては、私もかなり早い段階からシンパシーを感じていたのである。

振り返ってみると、ツイッターでとりわけ仲良くさせていただいている方々はなんだかんだ似たものを持っていると思う。リアルであろうとSNSであろうと、やっぱり類が友を呼ぶのが世の常なのだなと、改めて人間関係の妙に思いを馳せる目ん玉しょぼしょぼ月曜日。

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