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アドラーと妻①

最近、アドラー心理学の本を読んでいる。アドラーとはユングやフロイトと並ぶオーストリアの精神科医、心理学者である。

アドラーの本を読むことになったのは、↓の出来事が発端である。

この件を少し詳しく話すと、私がキッチンで洗い物などをして水を散らかすのが嫌だ──という妻の主張からすべてが始まった。

問題なのは、「水が散らかるのが嫌だから、あなたが散らかした水を今まで私が拭いてきた。それなのにあなたはいっこうに直してくれない」という不満を、私に対して「水が散らかるのが嫌なので散らかさないようにしなさい」という事前の通告もなく唐突に突き付けられたことである。

ここで私は「嫌だと教えてくれないとわからないこともある。十分に察してもらえないのを相手のせいにするのはあかん」と妻に伝えた。しかし妻はどうも要領を得ない様子なので、私はさらにこう付け加えた。

「水汚れについては情報を共有することで改善できるから問題ない。しかし、私が散らかした水を妻ちゃんがいつも拭いてくれるのはありがたいが、私はその様子に心当たりがない。だからそういうふうにサポートしてくれていることを知らなかった。あなたはサポートを重ねた分の鬱積があるかもしれないが、それを知らない俺にとってはまるで青天の霹靂。汚れるのが嫌なら掃除を代行せず、「汚れるのが嫌だ」と率直に言ってくれたらいい。そうすれば自分で掃除する。言わなかったのは妻ちゃんの選択であり妻ちゃんの問題だ。代行を繰り返して鬱憤を溜めたのも妻ちゃんの問題。俺に鬱憤をぶつけているのはほとんど八つ当たりと同じ」

ここまで話しても、彼女はやはりいまいちよくわかっていない様子である。

問題点はいくつかある。

①:それぞれで捉えている問題の大きさが違う

妻が問題だと思っていること(水汚れ)は私にとってさほど問題ではない。ちなみに私は汚れを拭くこともあれば拭かないこともある。拭かない場合は「このくらいは問題ない」と思っているのだが、妻にとってはそうではない様子。

②:①の違いをお互いに認識していない

コミュニケーション不足の結果である。妻は「水汚れに対し、あなたも同程度に問題を感じているはず。なのに改善せず私ばかり対応している」みたいな気持ちだったようだ。しかしその不満を口にせず自己犠牲あるいは奉仕の精神で掃除を代行してきた。自己犠牲的にそれを行ったこととコミュニケーションを十分に取らなかったことが原因で、奉仕行為がやがて親切の押し売りにまで発展してしまったのが今回の問題。

我々夫婦は、お互いに察することで物事がうまくいく場合が圧倒的に多い。なのでかえって今回のようにすれ違いが生じると、「察してくれない相手が悪い」という他責思考に陥りがちだ。察してもらえるのが当たり前だから、「せっかくやってあげたのに」という気持ちが働いてしまうのだろう。察し文化の弊害である。

③:①と③の結果として他責思考に陥る

①は単に感覚の違いなので、感覚を情報として共有することで難なく解決できる。②もシンプルなコミュニケーション不足なので、配慮や気づかいや察しばかりでなく言語コミュニケーションを積極的に行うことで解消できるだろう。

問題はこの件において「自分に何が足りなかったか」を自覚できない妻の思考である。

彼女には、善意で掃除を代行してあげたという自負がある。だからこそ「それの何が悪いの?善い行いをしたのに!」といった感じなのだろう。

この問題を妻にわかりやすく説明するにはどうすればいいかと考えたときに思い出したのが、アドラー心理学の「課題の分離」であった。

私は課題を分離する術をいつの間にか感覚的に身に着けていたので深く考えたことがないし、それゆえ当然ながら上手に言語化もできない。妻に理解してもらうために、まずは私がアドラーの本を読んで要点を抽出し、それをさらに妻にわかりやすく翻訳しよう──という試みである。

まだ課題の分離が登場する箇所まで読み進めていないので、この話の本筋については読み次第まとめようと思うが、90ページほど読んだ率直な感想として、自分はアドラー的な思考をしがちだと思った。

アドラー自身も私のようなタイプの人間だったのではないだろうか。きっと柔軟に適応できるタイプで、そもそもが楽天家なのかもしれない。アドラー心理学的な考え方や生き方は、そういう人には運用しやすいと思う。もちろん合わない人もいるだろう。このように、人にはいろいろなタイプがあるだけでそれ以上でも以下でもない。

今のところこの本の内容についてはおおむね同意できる。同意できるから正しいというわけでなく、要はこういう考え方が性に合っているのだろう。

仮に私が幸福な人生を実現する方法や思考を言語化したら、私と似たタイプの人間には有用かもしれないが、すべての人の役に立つわけではないはずだ。自己啓発に限らず情報の多くがそうで、人により合う合わないがあると思う。幸せを手に入れるための普遍的な方法などあるはずもない。そもそも幸せの感じ方からして人それぞれ違うのだから。

ただ一点のみ私が絶対に譲れないのは「人よ幸せであれ」という幸福主義的なスタンスだけである。

どんな劣等感があろうと、苦労があろうと、事情があろうと、幸せであるならそれでいい。私はこうして「幸福の自己実現」を徹底して追いかけてきた。

「なんだかんだ幸せならOK」というシンプルな考え方である。

幸せであるために頑張ってもいいし、幸せであるなら手を抜いてもいい。楽をしてもいいしサボッてもいい。ただし「幸せであること」が条件である。

もし幸せでないのなら、その原因を解明して解消すればいい話だ。

重要なのは幸せを自分でしっかり定義すること。自分の価値観を他人に預けないことである。これはツイッターで以前から何度も言っているが、おそらくアドラー的な考え方だろうと思う。

社会や他人に依存した価値観で自分を縛って生きていれば、本当の自分らしい幸せの形が見えないのは当たり前だ。

それにしてもこの一件を通して、世に存在する発達夫とカサンドラ妻のさまざまな事情まで垣間見える気がする。

私が妻の気持ちに配慮せず、ここに書いた文言通りに「あなたは課題を分離できていない」と冷たく言い放ったなら、彼女はきっと私の言葉に耳を傾けてくれないだろう。まるで発達夫とカサンドラ妻のやりとりではないか。

彼女が私の話に耳を傾け、内容を理解しようと努めてくれるのは、「アドラー心理学への造詣を深めたいから」ではない。

「私を大切にしてくれるパートナーが望むように、私も彼とのより良い関係を一緒に築きたい」と思ってくれているからだ。

つまり彼女の関心はアドラー心理学でなく私との関係にある。

「水で汚れたシンク」問題は課題の分離で処理できるが、夫婦関係そのものはむしろ課題を分離し過ぎてはいけない。愛とは融け合い混ざるものなのだから。

成熟した大人としてお互いに自他の意識をしっかり持ちつつ、それでいて愛という感情を通し一体となる関係性は、よく考えると非常に複雑怪奇なものかもしれない。

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