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6歳児に学ぶ人生

妻の指摘により、私は自分が息子に甘えていたことに気付いた。翌日、息子にそのことを謝ると、彼は初めて自分の考えを私に話してくれた。その内容は私にとって、驚嘆に値するものだった。

今回は、6歳児との対話を通して垣間見た“人間の可能性”がテーマである。

はじめの出来事

ことの発端はこうだ。大型連休の最終日、息子が小学校入学後、初めて「学校に行くのがめんどくさい」と妻に漏らした。それに対し妻が「(学校に行きなさい)あなたのためだから」と言っているのが私の耳に入り、それをよくない指導だと判断した私は咄嗟に「明日はお休みにしようか」と割って入った。

妻の「あなたのためだから」発言がよくない理由は、最近もっぱら関心のあるアドラー心理学の「課題の分離」の観点からである。課題の分離を引き合いに出さずとも、もともと私は「あなたのためだから」と親の欲求を無条件に子どもの自責に転換して強要する手法がひどく苦手であった。ほとんど条件反射のようなものだ。

さて、その日の夜、このような調子で「あなたのためだから」論法がなぜ子どものためによくないのかを妻に説明し、いろいろと話し合った。

その流れで妻は「じゃあちこちゃんの“あの感じ”はいいの?」と、私に問題提起してきたのだ。

“あの感じ”とは

“ちこちゃんのあの感じ”とは、たとえば家族でキャンプに出掛ける当日、嬉しくてテンションが上がった息子が、キャンプの準備をしている私の邪魔をしたりおちゃらけて見せたりするのを「邪魔するな」とばっさり一刀両断する私のその態度のことである。

私はせっかちな人間なので、とにかく最短で効率よく準備作業を片つけ、できるだけ早くキャンプ場に到着して遊び時間を最大限に確保したい。だから準備を邪魔されると単純にイラつくのだ。

キャンプなどのイベントごとにかかわらず、私は効率厨を自称するほど、日頃からとにかく効率を重視している。面倒なタスクに割く労力と時間をできるだけ削減し、一番おいしい部分のパフォーマンスを最大化したいのだ。

しかし、楽しい楽しいキャンプが始まるその日、喜びのあまり朝からテンションが上がっている息子は、そんな私にばっさり切られてさぞ悲しい思いをしただろう。妻はそんな息子の表情を見逃していなかった。

妻に“あの感じ”を指摘されるまで、私は「時間を効率的に管理したい自分の欲求」にしか目がいっていなかった。私自身もまた子どもの頃を思い返せば、キャンプ、遠足、運動会などの一大イベント当日は朝からうきうきして目を輝かせ、今では面倒に感じている準備作業というタスクですら楽しんでいたはずだ。そんな気持ちをすっかり忘れてしまっている自分に気付き、ハッとしたのだった。

息子への謝罪

息子が学校を休んだその日、私は彼と二人で電車に乗り、彼が希望する子ども広場へと遊びに出掛けた。その道中で、私は彼に謝罪した。

「あの日、俺はこれから始まる一日を楽しみにしていた君に対して、不機嫌な言葉を投げかけたよね。早く準備を終わらせたくてイライラしちゃった。でも、君は準備も楽しみたかったよね。イライラしてごめん。次からはお父さんも一緒に楽しんでいい?」といった具合だ。

それに対する彼の返答はこうだった。

「僕は気にしてないよ」

そして彼はこう続けた。

「実は僕、怒られるのが嫌いなんだ。だから先生とかに怒られると、ふざけちゃうの」

私が「どうやってふざけるの?」ときくと、彼は「こんな感じですいましぇーん!って感じ」とおどけて見せた。

そこで私はこういう話を彼にした。

「俺もそうだし先生もそうだけど、怒る大人って、ただ単に自分の気持ちをコントロールできていないだけなの。君は何も悪くない。怒りの感情をコントロールできない大人の側の問題なんだよ」

息子はいまいち要領を得ず(当然だが)、「どういうこと?」と首を傾げた。

「じゃあもう少しわかりやすく説明するね」

そして私はこういうふうに言い換えた。

「君が何か悪いことをしたとしよう。大人はそれを注意するよね。でも、「こら!なんてことをしてるんだ!やめろバカヤロウ!」なんて言わなくても、「それはこういう理由でいけないことだからやめようね?」と言えば君はわかるでしょ?本当はこうやって言えばいいのに、それがへたっぴだから「こら!」って怒っちゃうの。つまり君の問題じゃなくて、怒る人の言い方がへたなのが問題なんだ」

すると息子は合点がいったように「そうそう!僕もそう思ってた!」と返してきた。

内心で「え?そう思ってたん?こんな高度な理論を素で理解してたん?ほんま?」と思う間もなく彼は続けた。

「だから実を言うと、怒っている人を見ると頭の中で「バカだなー」と思ってた」と。

なるほど……「バカだなーと思ってた」という言葉のチョイスは、おそらく(というか完全に)私の悪影響だと思いまたしても反省させられたが、息子の研ぎ澄まされた思考に感心したのだった。

しかし人に対してバカと思う癖はつけて欲しくなかったので、話は「バカな人などいない」という方向へ。

私の持論だという前置きをして、「バカな人なんていないんだよ。でも、人は時にバカなことをしちゃうんだ。だから「この人バカだなー」でなく、「この人バカなことをしてるなー」というふうに考えてみるのはどう?」と話した。

まぁ「バカ」という言葉を使うのに少し抵抗があったが、時既に遅しだ。どちらにしろ今はバカなYouTuberがバカな言葉を連発して子どもに悪影響をばらまいているので、私が制止したところで暖簾に腕押しだろう(←はいそういうところ)。中指を立てる下品な(ともすれば外国人に殺されかねない)動作さえ真似してくれなければいいと思っている。

そんなこんなで私は、自分が息子に対して行ったバカな行為について改めて謝った。「俺は自分のバカさを君に謝っているんじゃないよ。君を悲しませた自分のバカな行為を謝りたいんだ」と。

すべてを理解していた息子

「僕に謝っているときのお父さん、悲しそうだった」と、息子はうつむきながら言った。

「そう?そっか。確かに君を悲しませちゃったことが悲しかったよ。君と一緒に楽しめなかった自分が悲しかった。でも、君に対してイライラしちゃったことも、今悲しい気持ちになっているのも、全部俺の問題なの。だから君は何も気にすることはないんだよ」

そう告げると息子は一言、私にこう返答した。

「うん。僕は気にしてないって最初に言ったよ」


無題



うおーーーい!マジか!伏線回収しやがった……!

この時の私の気持ち、想像していただけるだろうか……?

一瞬、6歳児の息子を空恐ろしく感じたが、感心を上回って感動してしまった。彼の口から出た言葉の数々は、場当たり的なものではなかった。すべて日ごろから考えていること、思っていること、自分の中で整理していることであるのが容易に想像できた。

大人が学習して獲得する「課題の分離」と「アンガーマネジメント」を、彼は素でやってのけていたのだ。

こうして息子と和解し、その日はいつにも増して親子で楽しく充実した一日を過ごした。

ここで生じた素直な疑問である。

「6歳児はなぜこんな高度な思考を獲得できたのか」

人はそもそもフラットな思考を備えている

これは仮説だが、人はもともと課題の分離やアンガーマネジメント、その他の基本的なソーシャルスキルなどはある程度備えているのかもしれない。

しかし社会活動の中でその純粋でフラットな感覚が歪められていき、不健全なバイアスで凝り固まる。その凝り固まった感覚を修正するために、我々大人はさまざまな概念やテクニックを学習し直しているだけに過ぎないのではないだろうか。

つまり大人になってから学習するこうした概念は“新たに獲得する知識や技術”というわけでもなく、失ったものをただ取り戻しているだけなのかもしれない。

社会に当たり前のように横行しているパワハラ、モラハラ、セクハラなどあらゆるハラスメント。いじめ。対立。闘争。不健全な上下関係に不健全な人間関係。慣習、儀礼、マナー。こうしたどろどろした社会をまだ体験していない息子が、まるで洗練されたような思考を持っている理由を説明するとすれば、「人間、もともと研ぎ澄まされている説」がもっともしっくりくるような気がする。

社会で人を生きにくくさせる原因そのものが社会であるとすれば、私はこれから息子に対し、社会をどのようにプレゼンすればいいのか。

もともとプレゼンするつもりがないのはさておき、彼との対話を通して、人間の未知なる可能性を垣間見たのであった。

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