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ろくでもない大人が前向きに生きる話

昨日、息子の小学校入学式を終えて妻とこんな話をした。

「ろくでもない学生時代を送った人間は、ろくでもない保護者になると思う」

まさに私がその「ろくでもない学生時代を送った人間」であり、おそらく「ろくでもない保護者」になる人間である。

「ろくでもない人間」とはつまり、社会的な規律に則らない人間のことだ。

たとえば私の場合、学生時代は提出物を出さなかったり宿題をやらなかったりした。それらをやる意味を見いだせなかったからだ。単純に勉強が好きでなかったということもある。

時間を守らないことや必要なものを持っていかないことも多かった。

夏休みの宿題など、多くの生徒が先延ばしにして「いよいよやらないと間に合わない!どうしよう!」という時期に、私はそもそも最初からやる気がないのでどこ吹く風といった調子である。反社会的ですらあった。

中学高校になると手ぶらで学校に行き、なんなら学校をさぼったりもした。

成人した頃、自分はサイコパスなのではないかと当時FBIで採用されていたチェックシートを試したこともあるが、どうやらサイコパスではない様子である(実際にはわからないが)。こういうところはいかにも発達家系といった感じで、以前は自分を発達っぽいと思っていた。

しかし今になって思うのは、これらの行動は生育によって生じた大人への不信感ゆえなのだと思う。大人との関係あるいは社会における協調という価値観を十分に養えなかったのではないかと想像している。

さて、そんなわけで私には勉強はおろか学校にすらまともに行かない時期があった。親や先生から叱られてもなんのその。信用していない人間から責められたところで何も心に響かないわけだ。

いまだにそうである。

学校の必要性を感じていないし、勉学の必要性も規則正しい生活の必要性もある一定レベルまでの社会常識の必要性もそれほど感じていない。それぞれを無用というわけでなく、要するに「必要な人がそれを取ればいいし、不要な人はわざわざ取らんでもいい」という考え方である。

たとえば昨日、学校からもらったプリントにこんな項目があった。

「お子さんはコンビニエンスストアに一人ないし友達と入ってはいけない」

妻はこう言った「ダメなんだね~ふーん」

それに対し私はこう言った「意味わからん。シカトでいいよ」

実際のところ、6歳の息子が一人でコンビニに入る機会など皆無である。とはいえ、もう少し経てばおつかいを頼んでもいい年ごろだとも思う。

子どもがなぜ一人あるいは友達とコンビニに入ってはいけないのか。その合理的な理由も書かれていないのに「学校に言われたから」という理由だけで受け入れる習慣が、妻とは違いこの通り私には昔からない。

仮に「連れ去りのリスクがあるのでコンビニに一人で行かせないように」と学校が言ったところで、万が一親と一緒なのに子が連れ去られた場合、学校は責任をとってくれるだろうか?とってくれないだろう。

そんなものである。大人は「言ったからね」で責任逃れこそすれど、何か起こったときに自ら責任を負わない。責任から逃げるか、あるいは責任という言葉で他人を縛ることには長けているようだが。

無責任な大人ばかりである。

そんなわけでアドバイスは素直に聞き入れるが、責任をとらない立場の介入はご遠慮いただく方針である。

これと同様に私は規律や習慣にも懐疑的だ。

校則のほとんどは不要だと思うし、学生時代に私は校則のほとんどを実際に破っていたと思う。それで誰かに迷惑をかけたわけではない。ただ単に「言うことを聞かない子」と大人に嫌われただけである。

校則は「言うことを聞かせるために存在しているもの」だと私は思っている。誰もそれにWhyを投げかけない。「校則は守るもの」という何の根拠もない動機でただただ盲従するだけである。

実際に校則を破っても、特に何も起こらなかった。誰かが傷つくわけでも迷惑をかけるわけでも困るわけでもない。

つまり特に必要もない規律を生むだけの足枷に過ぎないわけだ。多様性の真逆をいく悪しき慣習である。

ランドセルも制服も不要だろう。

一概に自分の考えが正しいとは思っていないが、いずれにせよ画一的な教育スタイル、つまり個性を無視した軍事教育のような教育体制に、私は昔からはなはだ疑問を覚えている。

時代は移ろうので、現代の教育体制は私の時代と大きく変わっているだろう。問題はどの程度変わっているか──だ。

規則を守らないのはよくないことだ。

でも、私の中には昔から「規則よりも大切なもの」がある。

それは自分の幸福感だ。

その幸福感が規則により犠牲になるなら、私は規則を捨てて幸福を選択する。

生徒が学校に遅刻したところで、果たして誰に迷惑がかかるだろうか?

生徒が宿題をしなかったところで、誰が迷惑するだろうか?

だから不登校問題に関しても個人的には寛容である。行きたくなきゃ行かなきゃいいし、「行かない」という選択ができる方が重要だとすら思う。そうでなければ、将来的にもしブラック企業に就職してしまったとき、ただ命令されるがままに過労死への道をひたすら進んでしまうかもしれない。

正しくないものや自分に合わないものは拒絶し、自分で修正しなければ。

誰かが助けてくれるのを待っているばかりでは手遅れになるかもしれない。

自分の人生は自分で選択し、決定しなければ。

嫌なものには「No」を示し自分を守ること。

自分の意思を言葉や行動ではっきり示すこと。

これができない人間が多いのは、そもそも日本の教育がそれをさせないからではないだろうか。

少なくとも自分の人生を振り返ってはっきり言えるのは、「Noを言う能力」は人生のあらゆる局面において強力なカードだったことだ。学生時代はもちろん、特に社会人になってからそのカードの恩恵を感じる機会が非常に多かった。

信用するに値しない大人たちの独りよがりな満足に、私は子どもの頃からほとんど付き合ってこなかった。

ずっとそうである。

だから自分の生きたい道を自分で選び、自分で決定してきた。そしてその結果、自分なりの幸せを見つけ、居場所を見つけ、仲間を見つけ、愛の巣を見つけた。

自分の幸せを優先して生きてきた結果、人の幸せに貢献する機会にも恵まれた。

正しい選択をしてきたと思う。

私は反社会的なのではなく、反不幸的なだけだ。

息子の幸せを妨げるものがあれば、たとえそれが学校であろうと行政であろうと、これまで通り真っ向から向き合って戦うだけである。

私は大切な人や自分自身の幸せを何より優先する。

だから息子には彼自身の意思や幸福を何よりも尊重してもらいたい。

すべての人がそれぞれの幸福の形を尊重し、そして自分自身の幸せを大切にできる世の中であって欲しいと思う。


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