発達×定型のクリティカルポイント①
発達障害者(以下発達)と定型発達者(以下定型)の相互理解や譲歩のために必要な指標を、最近明確に自覚した(というか今まで漠然と感じていたものをようやく言語化できた)ので記録しておこうと思う。
私が定義した指標は、大きく二つに区分される。
一つは「精神的許容」、もう一つは「物理的許容」である。
つまり、相互にこの二つの課題をクリアできれば、相互理解や譲歩や共存共栄が捗るのではないかという仮説である。
精神的許容とは
精神的許容とは、文字通り「精神的あるいは心理的ないし習慣的に相手の挙動や特性をどこまで許容できるか」の指標である。
主観要素がかなり強い部分なので客観的に指標を定義するのは困難だが、各々の課題を明文化あるいは明確に自覚する上で欠かせない領域だと思う。
わかりやすい例をいくつかピックアップする。
たとえばベジタリアンとミータリアンがわかりやすい。あるいはキリスト教徒とイスラム教徒でもいい。とにかく「異なる文化や習慣や感性を持つ者同士」が対峙した時に起こる感情的嫌悪感や摩擦をどれだけ解消&克服できるか──という課題である。
発達と定型も同様で、お互いに思考のメカニズムや解釈のプロセスが異なるため、つい相手の流儀や感性に対し(無意識的に)嫌悪感を抱いたり感情的に反発したりしてしまいがちである。
この辺の解像度を高めるのに役に立ちそうなのが以下の二つの記事である。
上記の記事を書いた当時、私にはASDの流儀や感性に対し感情的な反発や嫌悪感(※)があったし、そもそも「マジで?定型と異なる機序を持つ人間がマジでいるの?」みたいな疑心がまだあった。
この疑心は私の無知によるものだ。私はこれまで定型文化をベースに生きてきたし、仮にASDを含む発達と触れ合う機会があっても、彼らの大半がおそらく「定型文化が是」という(これまたおそらくほとんどが無意識的な?)判断の下、精度の差はあれどそれなりにうまく定型社会に擬態していたのだろうし、私自身も相互の差分を理解していないものだからそんな彼らをあまり気に留めず流していたのだと思う。
つまり彼ら(発達)の実態を知る機会があまりなかった。
だから「ここまで自分と感性が異なる人間なんているわけねぇだろ。いるとしたらそれはどこかおかしいだろ」という先入観らしきものがあった。
しかし弟との関係を通して「実際に自分と異なる機序で生きている人がいる」という現実をそれとなく肌身で実感した。さらにはXでの様々な方々との交流を通し、無知な私が想定していた以上に人間の多様性が裏付けられてようやく腹に落ちた。
(※)のASDの流儀や感性に対する感情的な反発や嫌悪感については、本当に「発達的感性の存在」を信じていなかったから生じたものだと思う。
特に「感謝や恩、義理や思いやり」という定型的情緒の文脈において、定型的なこれらに則らない彼ら発達に対し「意地悪でわざとそうしてんだろ」すら思っていた。
だからこそ感情的に反発するし嫌悪感もあったわけだ。
こちらからすると「意図的に性悪やってんだろ」と判断しちまうんだから(相対的な問題だとは思うが。つまりこっちが善意でやってることをあっちが「性悪かよ」と感じることが往々にあるはず)。
実際、異文化を持つ外国人から(日本人的には)非礼な言葉を言われても、私はこれまでほとんど気にしなかった。なぜなら「この人は俺と異なる文化や慣習で生きている外国人だから」と判断していたからだ。
逆説的に言えば、日本人的な礼儀礼節やマナーやデリカシーのロールなんて、グローバルに見たらむしろ少数派だろうという目測すらあった。だから失礼っぽい言動をする外国人に対し感情的に反発する動機がなかった。
ところが、日本人の(こちらからすると失礼な発言をしがちな)発達相手に「同じ日本人なのに」というバイアスが働くと、私は容易に違和感を覚えてしまう。
しかし「自分と同じ日本人にも、定型と異なる機序を持つ人間がいるんだな。人間は国籍や文化や慣習の多様性以前にそもそも人種を問わず脳が多様なんだ」という現実を呑み込んでからは、そういった感情的反発や嫌悪感がほとんどなくなった。
「彼らは感謝や恩や義理や思いやりがないわけでなく、そもそも私(日本人の一般的な定型感覚)と感性が異なるんだ」という現実を知れたのが良かった。
それを知るのは、おそらくリアル生活ではなかなか難しい。実生活においてこんなにも生々しくアクの強い話をする機会など皆無だから。SNSだからこそ言及できたし、それがSNSの利点なのだと思う。
そんなわけで、時間はかかったが私はどこかの地点で「なるほど、感性が異なるから表現が異なるし、流儀も違うのだな」とようやく納得した。そこでようやく“彼らの流儀”に敬意を払えるようになった。つまり、私が知らない感謝の形、恩や義理や思いやりの形があるのだ──と知ったわけだ。
私自身の理解や納得がそれなりに円滑に進行した背景には、私自身が発達指数高めの肉親がいたり多様性ベースの環境で育ったから「そもそも異文化への耐性が養われていた」ということも影響していると思う。
とはいえ、それでも私は自分と異なる感性を持つ人間に対してずーっと「ポジショニングだろ」と思っていた(誤解だったようだが)ので、基本的には「彼らへの理解に努めるスタンスがあった」わけでなく、あくまで「異文化の中で自分を守るために上手に適応する技術が培われていた」だけである。
その結果、私は何を得たかというと「自分を管理するスキル」である。決して異文化人への解像度が高まったわけでなかったが、少なくとも「異文化の中にあっても自分を保つ術(あるいは自分を救う術)」は獲得した。
大半の人に「ちこちゃんはメンタル強者」と評価される所以だと思う。私はメンタルが強いわけではない。ただおそらくメンタル管理が人並み以上に得意なのだ(慣れているので)。
そして、ここに「精神的許容」というミッションを達成するヒントがあるように思う。
前置きが長くなったが、ここからが本題である。
精神的許容における本題は二つある。
一つは「発達側の精神的許容事情」。
もう一つは「定型側の精神的許容事情」。
まずは前者から考察する。
「精神的許容」と言っても、発達と定型では課題が異なる。
おそらく発達の多くは「定型文化を許容せざるを得ない」状況にあるのではないだろうか。
なぜなら日本国内における社会活動の大半が定型文化を基準に設定されているから。
発達が定型文化に対し精神的にも心理的にも感情的にも反発感情を覚えたところで、あるいは「定型文化はおかしい」と思ったとて、社会に一歩出れば「お前がおかしい、排除でーす」と多勢に無勢で断罪される率が高いのだろうから、たとえ納得できなくとも順応(擬態)せざるを得ないはずである。
生きていくためには社会活動を継続していかなければならない。
なので生きていくために順応し擬態し、自分を殺しながら定型文化に適応する発達はそれなりに(実際にはかなり)多いはず。
これがいわゆる「発達は寿命が短い」といわれる遠因あるいは直接的な原因なのではないだろうかとすら個人的に推測するところ。
なぜって、人体にとってストレスがもっとも有害じゃんな。
風邪は万病のもと?いやいや「ストレスが万病のもと」だろ(私見)。
自分と異なる文化に過剰適応して心を病んだり消耗したりすれば、そりゃ自殺率は上がるだろうし心身の不具合も起こりやすいと思う。
こういう風に考えると、発達側はかなりの割合で定型文化を「精神的に許容せざるを得ない状況にある」と思う。
あまりでかい主語で語りたくはないが、理由はどうあれ一般社会において発達の定型に対する「精神的許容」はそれなりに達成されているような気がする。実際のところ実行数や成果率(当事者のQOL含め)が社会的あるいは統計的に見て十分かどうかはともかく、少なくとも発達は「精神的許容を達成するためのコスト」を(定型と相対的に見て)十分に支払っているケースが多いように私は思う。
次に「定型側の精神的許容事情」に言及する。
個人的にはこちらの方が厄介(というかでかい課題)だと思っている。
先述したように、発達が円滑に社会活動を行うには、大なり小なり定型文化に適応しなければならない社会事情があると思う。
一方、定型側にはほとんどその条件(ハンデ)がない。
なぜなら、定型側の正義を社会全体が「常識」や「マナー」や「礼儀礼節」などといった「定型社会が作ってきた定型の定型による定型のための文化」が担保してくれるからである。
「常識的に考えれば」
「普通に考えたら」
「当たり前でしょ」
こういう言葉で発達や異文化人を断罪しやすい立場にあるのが井の中の蛙日本社会多数派定型である。
私もこれらの言葉を感覚的に好む傾向がある。
なぜって、これらの言葉を共通言語としてシェアできる相手とは、高い確率で社会的にも情緒的にも調和できるからだ。
人間の多様性に対してここまで(それなりに)速やかに分析や考察を進行したと自負している私自身、いまだ「常識的に考えればそうだろ」「普通に考えたらそうだろ」「当たり前じゃん」という言葉を使いたがる(実際に使うかどうかはともかく)きらいがある。
こういう言葉を使いたがる理由について考えたことがある。
2~3年ほど前だったと思う。
当時は「自分と異なる機序を持つ人間に対する解像度が低いから」と思っていた。なので、自分と異なる機序を持つ人間に対する理解を深めれば解決すると思っていた。
しかし、どうやら話はもう少し複雑で、最終的には「人間(定型?)の本能的な欲求」にたどり着いた。
結論を端的に言う。
先にあげた断罪効果抜群の定型的な言葉の背景には“処罰欲求”があるケースが多いと思う。
少し難しいのが、この「処罰欲求」が発動する条件は非常に複雑ということだ。
自己正当化を試みる「承認欲求」に基づくこともあれば、自責を嫌うがゆえゆえに他責へ転じる──的な「防衛本能」、あるいは「報復感情」、「サンクコストへの執着」など、立場や境遇や環境やその人自身の精神的人生的成熟度のフェーズなど様々な要因が複雑に絡んでいるように見える。
「精神的許容度」に関し、各々の実生活における実態はともかく、総合的に見ると個人的には「定型の方がでかい課題を抱えてね?」と思うところ。
なぜなら、発達は「否応なく(日本の)定型文化に適応せざるを得ない」状況にあるのに対し、定型は「社会活動をある程度自動運転でまかなえる(コストが低い)からこそ異文化への適応努力があまり要されない(ゆえに自己改善や自浄に対する怠慢や甘えが生じやすい)」ということである。
発達と比較すると、定型の社会は自分自身の弱さや劣勢や脆弱性と向き合う必要がないように設計されているのだ、基本的には。
だから「向き合いたくない自分と向き合う機会が(発達と比較し相対的に)少ない」のだと思う。
だから異端児を断罪する。常識や当たり前を拠り所にする。そうして自分自身の心理的安全圏を維持する。定型が常識や当たり前に喧嘩を売らない理由であり、これが定型のいわゆる「思考停止」の状態かと。つまり「問題提起すら放棄する理由」である。
結局は先に挙げた「ベジタリアンとミータリアン」や「キリスト教徒とイスラム教徒」の例に帰結する。
相手を否定するために自分を正当化するのは感情的に楽なんだ。
組織化して異物を排除するのはもっと楽。
「異文化の理解に努める」のがもっとも労力を割く。それはそうだ。これが特性を越えた「人間として動物としての本能」なのだと思う。
でも人間には理性がある。感情的にでなく、相手を肯定するために自分を否定する(自分に疑問を持つ)視点を持てるし、そういう視点で文化的に相互発展や切磋琢磨することもできる。そしてこういう視点は、実は自分や周りのQOLを高めるのにかなりの効力を持つ。これが人間ならではの理性や知性の強みだと私は思う。
欧米をはじめとるする他民族国家は「異文化」に対してある程度寛容(というか実際には「適度に無関心」あるいは「許容度ガバ」)である。
私の印象だとこれらは理性や知性の賜物というより、単に境遇や環境による「慣れ」なのだ。
「慣れ(つまり順応性)」もまた人間の強みだと思う。
だいぶでかい強みだ。
島国の狭い世界で生きている日本人の大多数が、グローバルな「慣れ」を獲得する機会に乏しい。
これが日本人が日本人たる強みであり、同時に弱みだと私は感じている。
社会人の定義がガバな欧米に対し、日本人の単一民族的な国民性において「マイノリティ(少数派)=悪」とされやすい土壌や気質が確実にある。要は「日本にはそもそも多様性の歴史がない」ということだと思う。国際社会のサバイバルにおいては非常に脆弱だと思う。
発達と定型との関係(それ以外の文化的な関係も然り)においては「フェアに議論する目線」が欠かせないと思うのだけど、とりわけ定型側が発達側にフェアネスを担保できない原因には、こういった国民性や慣習や日本的な歴史や文化や土壌がかなりでかく影響しているように思う。
精神的許容のキャパを拡張するのは、目下のところ定型側の急務だろうと思う。もちろん個人的な見解ではあるが、「多数派」にあぐらをかいて生ぬるく生きて、これからの国際社会或いは日本社会(既に──だが)をサバイバルできるだろうか?
難しいだろうな。
「自分の領域から一歩でも外に出たら即死」みたいな生き方は、たぶんもうとっくに通用しないステージに日本社会はある。政治的にも経済的にも文化的にも国際事情的にも。まぁどの道を選択するか、どういう生き方を選ぶかは各々の自由ではあるが。
とはいえ「じゃあ多様性に即した精神的なキャパを獲得したらいいのか?」というと、そういうわけでもない。
ここで問題になってくるのが「物理的許容」である。
おそらく私がカサンドラになった原因は「精神的許容」と「物理的許容」の両者の達成が難しかったからなのだけど、失敗原因の多くの比重が後者にあったように思う。
そしてそれは、おそらく私のような職場カサンドラに限らず、夫婦カサンドラにも共通しているのではないかなーと。
以前は一般的な「カサンドラ(夫婦カサンドラ)」と私のような少し特異な「職場カサンドラ」は状況や境遇から鑑みて各々のプロセスや事情や背景が異なる別種だろうと分析していたのだけど、「精神的許容」と「物理的許容」で指標と定義を大きく二極化したあたりから「両者が発生するプロセスには共通するメカニズムがある=カサンドラが生まれるメカニズムは普遍的」と見るようになった。
「物理的許容」については次回で言及しようと思う。
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