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0円のあそび

友だちと新宿や渋谷で会って、食事をして、まだちょっとした時間があるときに、さあどうしようか、となる。周りをぐるりと見渡せば、たくさんの看板やネオンがこっちに来いよ、と誘う。じゃあ、とりあえずあそこのカフェにでも入ろうか、それとも映画でも観ようか。

僕はあそびにお金を使えば使うほど、小さなクエスチョンマークがお腹のあたりに塵のように溜まっていく。何か純粋にあそんだ気がしない。あそんだことはあそんでいるんだけど、100%あそび切ったと言える自信がどこかない。お金を出せば、用意周到に準備されたカフェスペースや映画のコンテンツを楽しむことができる。それはそれで楽しいんだけど、燃焼しきれないあそびの薪の燃えかすの匂いがする。

誰かにお金を払ってあそびを提供してもらうということは、あそびの一部をアウトソーシングしているということだ。他の人が僕らのためにあそびを考えて、作って、準備して、提供する。それはそれでラクでいい。でも、それだけでは、窒息死してしまいそう。あそびの一番の醍醐味は、あそび自体を自分で生み出すことにあるのだ。あそびを生み出すことをどこかへ放り投げてしまった人間は、あそびの一番大事な部分も捨ててしまっている。

近所でよく見かける光景がある。それは、子どもは楽しそうに鼻歌なんか歌って歩きながら、道路の端っこの決まった色のタイルだけを踏んで歩くゲームなんかを勝手に作ってあそんでいる。一方、連れ歩く親は、自分が子どもの頃の気持ちは忘れたのだろうか、つまらなそうな顔をしている。

僕らは大人になるにつれて、お金を払ってあそびの核心部分を誰かに預けるようになってゆく。だから、自分で作った0円のあそびを楽しんでいる子どもを見かけるたびに、僕はハッとさせられる。本当のあそびはこれじゃないか、と。

大人たちの中にも、僕と同じように感じている人たちがいると信じている。だから、僕はその人たちと、鼻歌なんか歌いながらジャンプしてあそぶ子どものように一緒にあそびたいとたいへん真剣に考えている。

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