快楽を求めるための理性―「快楽主義」(エピクロス主義)の誤謬―


はじめに―「快楽主義」の誤謬―

 「エピクロス主義」―高校で世界史を学習した者は、「禁欲主義」のストア派と対に覚えたことだろう―は、世に「快楽主義」として知られる思想である。「快楽主義」といえば、無秩序に快楽を求めるような堕落的な思想と捉えられがちであるし、エピクロス主義は実際歴史上そのように誤解されてきた。しかし、実際のエピクロス主義は堕落の対極にある。確かに、エピクロスは快楽の最大化を理想とした。しかし、彼はその手段として、欲望をひたすら叶えようとすることではなく、可能な限り欲望を減らすことを唱えた。エピクロスの幸福論は、彼による次の金言に集約される―「ピュトクレスを金持ちにしたいのなら、彼の財産を増やしてやるのではなく、彼の欲望を減らしてやりなさい。」欲望を最大限減らした状態が、エピクロス主義の理想の境地とされている「アタラクシア」(平静不動)である。エピクロスの有名なフレーズ「隠れて生きよ」とは、「アタラクシア」を求めるためには、人は心の平安を乱す俗世から「隠れる」(離れる)べきであるという意味である。
 本稿では、エピクロスが、人はどのように欲望を減らすべきとしたかについて紹介する。そして更に、「アタラクシア」を目指す試みの中で理性―私のこれまでの記事における中心的なテーマ―が重要な役割を果たすかを考えようと思う。

欲望のフィルターとしての理性

三種の欲望―肉体の快楽―

 エピクロスは、欲望を最大限減らすことを理想とした。では、その具体的な方策とは何なのだろうか。
 彼は欲望を3つの種類に大別した―まず一つは、食欲や睡眠欲などのような「自然的でかつ必須な欲望」である。次に、上等な食事や、性欲のような「自然的だが必須でない欲望」が来る。これは、五感には心地よいが余分であるものだ。そして最後が、高級腕時計や権勢欲のような、「自然的でも必須でもない欲望」だ。これは、五感ではなく社会的に構築された欲望である。
 彼は、この3つのうち、「自然的でかつ必須な欲望」は満たされるべきものだとした―それがなければ生きられないから。そして逆に、「自然的でも必須でもない欲望」を決して満たされるべきでないものとした。なぜなら、これは、五感によるものではない故満たそうとしても際限がなく、満たそうとする試みがむしろ苦痛をもたらすからである。この2つの中間にある「自然的だが必須でない欲望」についても、あえて満たそうとすべきではないとした。「自然的でも必須でもない欲望」と比べ、五感によるものだからある程度の限界はあるにしても、やはりこれを満たそうとする試みが苦痛をもたらしうるからだ。飲みすぎた酒はその時は心地よさをもたらすとしても、翌日にはその心地よさを超える苦しみ―二日酔い―をもたらす。盲目に相手を求める恋は、相手を求めている時には至福をもたらすが、叶わぬことがわかったときにそれを超す絶望をもたらす。
 しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる―人は何を用いて欲望を減らすのか。満たすべき欲望と満たすべきでない欲望を取捨選択している実体は何であるのか。私はこの疑問に、「それは『理性』である」と答えたい。元来相即相入で、グラデーション状に混ざりあった欲望を、分析して3つに分類するのは、自分の欲望や感情について内省して、客観的に分類(フィルター)を行う理性の存在なくしては不可能であろう。人は理性により肉体の快楽を得ることができる―肉体の快楽を最大限減らすことにより。

「後悔」からの開放―魂の快楽―

 「覆水盆に返らず」ということわざがある―英語で言えば"It is no use crying over spilt milk"。構文It is no use ~ingの例文として、ほとんどの高校生にとって見覚えのあることわざであろう。これは、「一度起きてしまったことは二度と元には戻らない」ことを意味することわざであり、後悔―一度起こしてしまったことについて、取ることができたより良い選択肢を探る試み―の無意味さを伝える。
 エピクロスもまた、後悔の無意味さと害について警鐘を鳴らしている。後悔も、過去を変えたいという欲望の一つである上に、不必要かつ実現不可能なものであるからである。後悔を、先の三分類で分類するとしたら「自然的でも必須でもない欲望」にあたるだろう―「後悔」は五感から生じるものではないし、生存に必須でもないから。それ故、後悔はすべきではないのだ。
 では、「後悔」は、五感からではないとしたらどこから生じているのだろうか。それは、「理性」―エピクロスの言葉では「魂」―であろう。エピクロスは、快楽を「肉体の快楽」と「魂の快楽」に二分した(後者はあくまで前者に依存するとしたが)。「肉体の快楽」についてはすでに触れたが、「魂の快楽」はどのように得られるのだろうか。
 エピクロスは、世界はアトム(原子)とその運動により構築されているとする、デモクリトスを発端とする原子論を信じていた。そのため、彼の世界観では、世界はすべて意図を持たないアトムの運動の結果であり、「神」や「運命」の意のままなどではなかった。また、魂は肉体のように「自然的で生に不可欠な欲求」を有していない。そのため、彼にとって魂の快楽はあくまで肉体の快楽に依存したものであり、魂固有の快楽は存在しなかった。
 彼によれば、魂の快苦は「欲求充足の予測」と「充足不可能の予測」から生じる後悔は、「充足不可能の予測」にあたるだろう―「予測」というよりかは「結果」というべきかもしれないが―。そして、過去は変えられないから、決して満たすことができない「後悔」という欲求は克服すべきなのである。
 さらには、原子論によれば、世界はアトムの運動により構築されているのだから、過去には決して戻れない。戻りたい「あの時」からもうアトムは移動してしまって、あの時と同じアトムの配列はもう二度と実現しない―少なくとも生きている間は―のだから。原子論からしても、やはり後悔というのは不毛な試みであるのだ。そして、不毛であるから、エピクロス主義的には避けるべき試みでもある。
 
「後悔」という魂、あるいは理性からくる苦しみについても、やはり理性がそれを抑える鍵になるようだ。理性の面で、「過去は変えられない」という、自然についての正しい認識を持つことが、後悔から開放されることを可能とするのだ。

理性と感情の関連性についての再考

 従前、私は「理性」こそが人間の本質であると考え、そのように発言してきた。

 前稿『「顔」は「自分」なのか?』にておぼろげながら表明したように、私の自我論は、先に挙げたデカルトのそれとほぼ同一のものである。すなわち(冒頭で立てた問いに答えるとすれば)、私にとって、「自己責任論」であるもの、社会構築的性質=第三者性を持つものを排していった後に何が残るものとは「理性」である。そして、肉体や社会的地位などの第三者性を持つものから開放された「理性」としての我々が為すべきこととは、「形而上学の探求」≒哲学の思案を深めることであると思う。

結局何が「自己責任」なのか?―社会構築主義とデカルトの実体二元論、「『自分』とは何か?」という問いについての一考―
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しかし、上に引用した記事を書いて以来の、自己の経験や他者との意見交換を経て、この自我論も変遷を迫られた―やはり「理性」ではなく「感情」こそが人間の本質ではないのか。感情、あるいは欲望こそが人間の本質である。理性とは、人間の本質=感情=理性を覆い、その暴走を抑えているものではないだろうか。エピクロスも、人が生きる目的として、「快楽の最大化」を理想とした。そして、彼は快楽につながる「欲望」を、(おそらく理性によって)制御すべき存在とした。
 無軌道な感情や欲望を、考え方を変えたり―それこそエピクロス的に感情をフィルタリングするなど―、(それが難しければ)能動的に気晴らしをしたり物質を摂取し、満たすことが難しい欲望を代償的に満たしたりして制御する。これこそがエピクロス的幸福にたどり着く道であるし、人間の本質たる感情を覆う理性の役割だろうと考える。 

おわりに

 本稿では、「理想の生き方」の指針の一つとして、「快楽主義」と知られるエピクロス主義を紹介した。今回エピクロス主義を取り上げた理由として、以前「禁欲主義」のストア主義―エピクロス主義と対をなす(とされる)思想―について記したのもあり、エピクロス主義についても書いてみたかった、というのもある。

 さらに、そこから発展して、私の自我論―私のnoteにおける中心的テーマの一つ―の再構築の試みも行った。すなわち、「理性」ではなく「感情≒欲望」こそが人間の中心にあるものであるとして、その制御者として理性を位置づける可能性を探った。まだ完璧に私の自我論を確立しているわけではないが、本稿は少なくともその確立に向けての一歩にできると思う。

参考文献

  • ルチャーノ・デ・クレシェンツォ. (2002). 物語ギリシャ哲学史II ソクラテスからプロティノスまで (谷口伊兵衛, 翻訳者). 而立書房.

  • 生松敬三, 伊東俊太郎, 岩田靖夫, & 木田元. (2011). 概念と歴史がわかる 西洋哲学小事典. 筑摩書房.

  • 利博和田. (2005). エピクロスにおけるアトムの逸れと行為の自発性. 西洋古典学研究, 53, 114–124. https://doi.org/10.20578/jclst.53.0_114

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