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アルバムを利く 〜その5

queen「a night at the opera」B面 1975年

アルバムを聴く〜B面


いよいよアルバムB面を聴いてみます。
A面はこちら

アルバムB面は⑧曲目から12曲目まで。曲名でいうと「the prophet song」から「God save the Queen」になります。

運命の人との別れ


B面は「預言者の歌」からしずしずと始まります。荒涼とした風景を思わせるイントロから預言者に扮したフレディが「わたしの話を聞け…」と人々に忠告を始めます。内容はやがて来る大災厄。
中盤で聞かれるフレディによる一人多重録音アカペラコーラスは前作「sheer heart attack」でのディレイコーラスの発展形だけど、この後の「bohemian rhapsody」での壮絶なオペラパートの先触れともとれる。このコーラスは大災厄に翻弄される民衆の嘆きを表現しているのだと思う。舞台上に揃いの衣装を着たコロスたちが並んでリードシンガーと掛け合いをしているイメージ。
曲の終わりハープ(立琴)の響きに導かれて始まるのが名曲⑨「love of my life(運命の人)」。ぼくはこのアルバムのハイライトは「bohemian〜」ではなく実はここだと思う。レコーディングについて書かれた記事を読むとブライアンメイは狂いやすいハープのチューニングに大変苦労したという。記事にはそこまでしか書かれていないがではなぜブライアンはそこまで苦労してここにハープの音色を入れようとしたのだろう?
ぼくはこれは曲の作者フレディの強い希望だったのではないかと思う。ハープの響きが加わることでここに中世的な雰囲気が生まれ「love of my life」という曲には「トリスタンとイゾルデ」のような中世悲恋説話の面影が漂い出す。
当時の恋人メアリーオースティン(女性)を歌ったというこの曲、ぼくはフレディの書いた印象的なラブソングの中で特に優れているとは思わない。それでもこの曲がこのアルバムのこの場所に絶対に必要だったことは認めざるえない。あまり好きではないこの曲もアルバムのこの場所で特別な光を放っている。
作者のブライアンがヴォーカルをとる⑩「good compay」はディキシーランドジャズのスタイル。クラリネットやサックスを思わせるソロも入るがそれも全てブライアンのギター演奏だというのがクイーンらしい。ここでも舞台上に現れるのは本物のジャズバンドではなく俳優たちによって演じられるニセモノなのだ。
最愛の妻と別れて孤独な余生を過ごすという歌詞、ここでも愛する人との別れがテーマ。

フレディとファルーク


そしていよいよ11曲目「bohemian rhapsody」。「これは現実なのか、それとも幻想か」と歌う導入部に続いてフレディがピアノを弾きながら「ママ、たったいま人を殺したよ」と歌い出す。これは何を意味しているのか?主人公はいったい誰を殺したのか?フレディは「好きなように想像してよ」と言って生涯答えなかった。
ぼくはこれはファルーク・バルサーラ氏のことを歌っているのだと思う。ファルークはペルシャ系のパールシーの両親のもとに生まれた。パールシーはペルシャ帝国が滅亡したときに国外に亡命したゾロアスター教徒たちの子孫。ファルークの父はイギリス植民地の官吏を務めていた。寄宿舎で成長したファルークは大人になり、ロックスターを目指すようになる。当時のイギリスでペルシャ系のゾロアスター教徒がスターになるのは、ぼくたちの想像をはるかに超えて困難なことだったのだろう。ファルークは誇りあるパールシーの名前と信仰を捨てた。そして「フレディ・マーキュリー」と名乗り自らを人々に愛と知性を伝える水星からのメッセンジャーと位置付けた。ファルークは名前を捨てることを家族に涙ながらに告白したという。
日本人のぼくたちからすれば芸名で歌手活動するなんてありふれた事でなにをそんな大それたことを、と思ってしまうけど彼にとっては重大なことだった。このあたり、アメリカのソウルシンガーの立ち位置にひじょうに似ていると思う。
ソウルシンガーは教会でゴスペルを歌っていた人たちで、転向して世俗の歌を歌うようになった。それはお金のためであり生活のためであったけど、神への愛を男女の愛に置き換えて歌う、つまり依然として福音を伝える者だという意識があったはずだ。彼らにとってはそのようなエクスキューズが必要だった。
歌のスタイルと信仰の対象は違うけど、その精神においてフレディはソウルシンガーにとても似ていた。後年ソウルミュージックに傾倒していく姿、ヒットした伝記映画では大きな過ちのように描かれていたけどぼくはそうは思わない。フレディは始めからソウルフルだったしそれは彼にしか表現できない福音だった。
とにかくファルークは自らを殺すことでフレディマーキュリーになったのだ。

美しき古風な愛の形


また別の解釈もできる。映画をご覧になった方はご存知のとおり、フレディは男性も女性も愛するバイセクシャルだったがこの時期にはメアリーオースティンという女性の恋人がいた。このあとしばらくしてゲイとしての自分を抑えきれなくなったフレディはメアリーと別れる。でもフレディは自分が男性としてメアリーを幸せにしてあげられなかったことをずっと気にしていたらしい。フレディが亡くなったときに遺産がメアリーに贈られたともいう。結婚はしなかった女性にだ。フレディは奔放な恋愛を繰り広げる一方で運命の人を一途に想い続ける「good old fashioned lover boy」でもあった。
「mama」は英語で母親をさすがブルースの歌詞では恋人をさす言葉となる。「mama」を恋人への呼びかけと見てみれば「ママ、たったいま人を殺したよ」という告白は女性を愛する男性としての自分を殺してゲイとして生きる決意とも読める。

真相は藪の中


だが真相は藪の中。フレディは生涯この歌の意味を語らなかった。ある時には「ぼくにもこの歌の意味がわからない」とはぐらかしている。たぶんこの歌に決められたひとつの解はないのだろう。高次方程式のように複数の解が導き出されるのだ。タイトルの「ボヘミアン」のとおりこの歌の真意はひとつの場所に定住しない。

風呂おけの栓


いずれにせよこの「bohemian〜」は音楽的にはアルバムのこれまでのスタイルの集大成だ。ハードロック、バラード、オペラ…。まるで風呂おけの栓を抜いたときのようにアルバムのこれまでの要素が一点に集約されていく。ちょうどコンセプトアルバムの金字塔、the beatlesの「surgent peppar lonly heart club band」において最終曲「a day in the life」の弦楽器のアンサンブルにアルバムのすべての要素が流れ込んでいくように。
そして渦を巻きながら水が抜けたその先には…

抑圧の元に 


ロックギターによるイギリス国家演奏、12曲目「God save the Queen」が待っている。もともとこの曲はアルバムに収録される以前からライブのエンディングに演奏されていたようだ。
もちろんこれはバンド名からの洒落であると同時にジミ・ヘンドリクスのアメリカ国家演奏をなぞらえたものでもある。ギター少年だったブライアンからすれば無邪気に憧れのジミの真似ができることが嬉しかったんだろうけど、フレディはもう少し複雑で皮肉な意味をここに込めていたように思う。
アルバムの流れの中で大英帝国という大きな権力は愛し合う恋人たちの上にのしかかる。そして個人の力を超えた国家と歴史の大きなうねりのなかで恋人たちは引き裂かれていくのだ。まるで「ロミオとジュリエット」の主人公たちが両家の対立によって引き裂かれていくように。
アルバムの冒頭では秩序(オペラ)を脅かす暴力的な存在としてロックミュージックが示唆されていたが、アルバムの最後にそれがくるりと反転して個人の人生を引き裂く真に暴力的な存在として国家が示される。みごとな構成だと思う。
フレディを含めメンバーたちはそれぞれが作った個人的な愛の歌をただ持ち寄っただけだ。たがバンドはそれをはめ込んでもっと大きなテーマを表現した。シングル「killer queen」のヒットにも関わらず、このときのバンドは破産寸前で次のアルバムがヒットしなければ解散するかも知れないという崖っぷちの状態だったという。音楽に政治的なことを持ち込むのをなによりも嫌ったのはフレディ自身だが、もしかしたらこれが最後かもしれないという思いがフレディに大きなテーマに挑戦することを決意させたのかもしれない。

さいごに


この解釈をフレディが聞いたら何と言うだろう。鼻で笑ってそれからウィンクしながら「おもしろい解釈だねダーリン!」と言うかもしれない。自分の作品は消耗品のただのポップスだと語っていたフレディ。飽きたら捨てる使い捨てだと。でも彼はその使い捨てを作るために自分の全存在を注ぎ込んだ。その思い切りのよさが粋だなあと思う。そこが産業ロックとクイーンの音楽の違うところだ。
ぼくは今でもクイーンのアルバムに聴き入ってしまう。フレディが死んで30年が経つがぼくはまだ彼の作品を消耗できず使い捨てにもできない。

おわり




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