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SNSでのキリスト教界隈を見てきて

私はここ1年ちょっとくらい、Twitterでキリスト教アカウントを作って活動していました。
今もアカウントは存在していますが、私はそこのタイムラインを見ることから離れています。

私はTwitter初期はかなり激しく活動していました。
しかし、少しずつTwitterのクリスチャンの方々と考えが合わないことに気付いてきました。

それに、クリスチャンとは思えない言葉を使ったり、クリスチャンでありながら他のクリスチャンの晒し上げをする人、それに与して晒し上げツイートに「いいね」をしたり、晒された人を嘲笑する人もいて、驚愕しました。

さらに付け加えると、過激な言葉を発信している人がいて、私がそれを見るのが嫌になったのでその人をブロックをしたら、相手が私からブロックをされたことを逆恨みし、根に持って、私が見境なく人をブロックする人間だという言いがかりをつけて、それを他の人に吹聴している人もいました。

これらは実際に私がされたことでもあります。

私はそのような人たちを「変だ」と言って裁いていました。

そんな私の様子を見かねて、伝道者が「最近、柚莉はよく他のクリスチャンを変だと報告してるよね」と言って、私にTwitterから離れるように言いました。
おまけに、「うちらの教会も変だからね」と言われました。
私たちの教会は確かに、異端とかカルトという意味ではありませんが、教会堂がなく、出入りが自由という意味であまり人が来ない教会でもあります。
私は伝道者のその言葉には、妙に納得しました。

要するに、私も変だということです。

SNS、主にTwitterをしていて、悪影響ばかり受けていたので、Twitterでの活動を最低限にして、noteでの活動を伝道者から勧められてnoteでの活動を中心にした次第です。

あまり、他者から影響を受けやすい人や傷付きやすい人はTwitterでクリスチャンと繋がって交流を持つのは、非常に個人的な体験からですが、オススメ出来ません。

実際にTwitterでストレスを抱える人もいるということを耳にしました。

ですから、私が今まで使っていたアカウントは、Twitterのスペースでのリアルタイムの礼拝配信に参加するため、所属教会の伝道者のツイートを見るために使っています。

ただでさえ、クリスチャンは弱い人が多いので、違う考え方に振り回されたり、攻撃的な人から酷い目に遭わされたりしないためにも、SNSは上手く使いたいものです。



2024年追記 気になったこと


昨年も𝕏にて、キリスト教垢を動かしていましたが、私自身が若干の被害を受け、最近は雑多垢としてキリスト教のことや、日常のこと、ゲームのことなどを呟いています。

それで、気になったことをいくつか追記していきます。


所属教会への批判と指導者への悪口


所属教会への批判とこれから書くもう一つのトピックは特に気になったことです。

私たちは所属教会から何を受けていますか?
何も受けていませんか?

所属教会の説教で福音が語られ、聖餐式または聖体拝領が正しく執行されているならば、それで満足すべきです。
もしも、嫌がらせや不満がその教会であれば、牧師や司祭にはっきり言うべきです。

SNSのような不特定多数が見る場で、所属教会や牧師・司祭といった教会指導者の悪口を言うのは、恥ずかしいことだと認識すべきです。
それは、世の人が行う陰口となんら変わりありません。
教会内での自分の立場を守ったまま、不満を言うのはどうなのでしょうか。
はっきりと、指導者にものが言えないならば、黙っているか、別の教会に通うことを検討すべきです。

また、教派の教理や指導にはきちんと従うべきです。
教会の悪口を言う人にも苦労があることは分かります。
ですが、自分の価値観で物事を判断せず、教派のこの教理は聖書的か、イエス様の聖心にかなっているのか、教会はどういう場所なのか、何を求めて私は教会にいるのだろうか、そのような判断の仕方をキリスト者としてはしていきたいと思います。


報復行為とSNS特有の人間観


間違ってはいけないことですが、SNSにいる人たちは皆、人間です。
時々botもいますが、そのような人はすぐに判別がつくと思います。

私は、SNSで顔が見えない、匿名だからこそ、「何を言ってもいい」というような、礼儀の垣根を越えて失礼な言動をする人が多く感じます。
一人で心の中で何かを思っている分には別に何も思いません。
しかし、悪口の吹聴、拡散をしたり、本人のいないところで複数人で全く関わりのない人の話題を出したり、人間関係を築く上で事実確認をせず、「私は傷付いた」と言ってしまうのは、大人気がないように思えます。
まずは、事実確認とその理由を聞くことから始めることで信頼関係は始まるのではないでしょうか。

私がこのように厳しく言うのは、先述したように関わりたくない人をブロックしたらスクショ晒しをされ、そのポストを見た赤の他人が私のことを嘲笑っていたことや、ブロックしたことを逆恨みされ、私が「見境なくブロックする人だ」という悪口をあちらこちらに言われたからです。
ただ、相手からブロックをされるだけならまだしも、そのようなことをされて私自身も傷付いています。
その中では、私がごめんなさいをした上で、お互いに関わらないことにした人もいます。

だからこそ、はっきりしてほしいのは、事実を本人から聞こうということなのです。
聖書でもそのようなみことばがあります。

[ヨハネの福音書 7:50,51]

彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

そして、本人から話を聞かないまま、報復行為(晒し、悪口)をするので、本当にキリスト者を名乗るのであれば、しっかりしていただきたいです。

私はかなりやるせない気持ちでいます。
過去に本人への確認をしないまま問題が起きたことで、教会を揺るがした事件が起こったからです。
はっきり言わせてもらいます。
そのようなことはやめていただきたい。

2024年、年始から大変な天災が起きています。
そのような危機の時代だからこそ、私たちはキリストを中心として、自分のお気持ちではなく、神の言葉で交わりをすべきではないでしょうか。

なるほどと思ったことですが、視点を変えてみるとこのようなSNSの惨状を作り出した最終責任は、教派・教団・教会にあるということです。
確かに、そのような人々を作り出してしまうのは、教会の司牧状況が不透明なこともあります。
それに拍車をかけるように、コロナ禍で交わりが希薄になって、教会にも通わなくなり、連絡が取れなくなった信徒たちがいるというお話を友人牧師が語っていました。

時々、私たちの教会に参加する人がいますが、説教途中で礼拝を抜ける人がいたり、逆に説教しか聞きに来ない人もいて(そして奉仕に対して全く感謝をしてもらえない)、少し残念なこともありました。
私は初めて参加するならば仕方ないかもしれないと最初は思っていましたが、時々あったのは、質問を頂戴した時、論点がズレている(みことばと関係ない質問をする)人や質問時に自分の考えを先に言わない人がいて、私はどう答えたら良いのか分からない時もありました。

ですが、中には礼拝の最初から最後まで参加して、説教の内容の深いところは分からなくても、私たちの交わりに参加したいという人もいて嬉しかったのもありました。

最近のSNSのキリスト者の動向を見ていると、説教及び聖餐式(聖体拝領とは違う)を軽視している方々が多いように肌感覚で感じます。
説教の軽視とは、極端に言うと、「説教はなくていい」「長い説教は嫌だ」といったものです。
説教は私たちが選んで聞くものではありません。紛れもなく、神の言葉です。それが分かっていて、福音が説教の中で語られていれば、時間は気にならなくなるし、ましてや、説教が必要ないなどと、神を侮る言葉など口に出来なくなります。
例えば私ならば、礼拝後の交わりで説教の感想が浅いものだと叱責をされます。
それは説教を聞いていないからというわけではなく、説教を聞く耳がないからです。つまり、神の言葉を聞けていないと叱責をいただくわけです。キリストが教会の中心におられると、必然的にそのような交わりになっていくはずなのです。

果たして、今のSNSにいるキリスト者の方々で
しっかりと「私は説教を聞く耳があります」と言える方々はおられるでしょうか?説教を何度も聞き直している方々はおられるでしょうか?

説教が甘い、説教を聞く耳がない、聖餐式が軽視されている。
それぞれの教会の現状から、まるで年だけは立派な幼子のようなキリスト者が増えているのではないかと思います。

だから、私が勧めたいことですが、

人の悪口を言わない、
不安があれば事実確認をする、
教会には従う、
礼拝は(配信であっても)毎週リアルタイムで参加する

私が昨年教えられたこれらのことを実践してみませんか?
それだけでも、私たちは変えられると思います。
自分ではなく、キリストの御思いを大切にしましょう。
聖霊を悲しませることをやめましょう。

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