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唯一絶対的な救霊の働き

諸宗教とキリスト教の根本的な違いは、死後の望みや、過去・現在・未来における人間の霊の救いであると私は考えている。

ある宗派によると、「人間は死後、蝋燭の灯火のように消えていくものだ」という理解を持っている。

私はまだ若いながらも、死別の経験は多かった。
いつの間にか知っている人たちがいなくなり、死の間際の立ち合いはしたことがないが、亡骸は何度も見てきた。

私が明確な死別の喪失を味わったのは、高校生の頃である。
大好きな家族が亡くなってしまった。
私はその頃、まだキリストを知らずにいたので、死を知らなかった。
だから、ただ大切な家族を失っただけであった。
それがどれほど、私の心を抉ったであろう。
私は号泣しすぎて葬儀に参加できず、誰の慰めの言葉も受け入れることが出来なかった。

また、数年前にもクリスチャンの大切な人を失った。
しかし、その時は私は洗礼を受けており、福音を伝えられていたので、なんとか喪失の痛みに耐えることが出来た。
もしも、キリストの救いを知らないままでいたら、私は家族の死に耐えられなかっただろう。

そのクリスチャンの家族の葬儀は、カトリック教会であげられた。
葬儀ミサというものは、賛美歌を歌うこともあって、意外に明るい葬儀なのだ。
私はそのことに少し驚いた。
それまで私はとある新興宗教のものしか知らなかったためである。

葬儀ミサの中で、司祭がメッセージを10分前後語っていた。
そのメッセージの聖書箇所が、私が救われたみことばの箇所でもあったのにも驚いた。
メッセージの内容というものは簡単で、「亡くなった家族は今天国でイエス様に安らいでいる」という旨だったと記憶している。

だが、そのメッセージを聞いて、学校教育を十分に受けてこられなかった亡くなった家族の奥さんは号泣し、その人たちの宗教嫌いのお子さん方は強く頷いていた。
きっと、メッセージに慰めを受けたのだろうと私は思っている。

最初の話に戻るが、聖書には誰が上に行くか、下に行くかを語ってはいけないと書かれている。

"しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。"

ローマ人への手紙 10章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

そして、キリストによって、すべての人が救いに招かれていることも忘れてはいけない。

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"

ペテロの手紙 第二 3章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神は唯一である。唯一であり、絶対なる御方である。
そして、唯一である神を信じた私たちは主の前に生きる者となるのである。
これが、主の救霊の働きであると私は考える。
キリスト者で聖書を、本当に神の言葉を信じているならば、キリストが罪人を招くために来られて、語られた福音を知っていくべきなのではないか(もちろん私も含む)。

"私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。"

コリント人への手紙 第一 8章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私の家族は、死に瀕した家族の救いを求めて、様々な宗教を渡り歩いたらしい。
元々は仏教の檀家であったのだが、それでも別の場所へ救いを求めた。
探し回った中には新興宗教なども入っていたと聞いて驚いたものである。
時が遅すぎて、私にはなぜ宗教を見てまわるようなことをしたのか、その理由を知ることは出来なかった。
それで家族が辿り着いたのは、カトリック教会であった。
その家族の持っていた祈祷書には、「死者のための祈り」が書かれていた。
きっと、ロザリオの祈りと死者のための祈りを何度も祈っていたのだろう。

その人はもう帰天されているが、子供や孫たち親族の記憶を通して、今もキリストに救いを見出したことを証している。
そこに、キリストの救いに至る証言は永遠だということを見ることが出来る。

一方で、私の親族には檀家の長男の家がある。何代にもわたって受け継いできた仏壇が家に置いてあった。
般若心経を唱える宗派であったが、誰も救いを求めてそれを唱える人はいなかった。
親族の仏式の葬儀にも参加したが、慣習的なものであったことを伝えておこう。
坊主が般若心経を唱え、お焼香をあげるだけの葬儀である。
その葬儀の喪主となった長男一家は「無表情」で淡々と葬儀をあげていたことを思い出す。
コロナ禍で僧侶の判断で説法もされず、それなのに葬儀の費用は通常通りに取られて、そこに遺族への慰めなどあったのだろうかと疑問に思う。
これは私の好き嫌いの話ではなく、事実である。

キリストが携えてきた良き知らせ(福音)は霊を復活させ、御国へと招くものである。
主によると、私たちは「盲人でない」と言っていると、罪は残ると語られている。
私たちはキリストを信じなければ、目が見えていないことすらも分からないのである。

"そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」"

ヨハネの福音書 9章39~41節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

自分の救いの絶対性を得ることにおいて、救われた理由、過去を振り返ることは時に重要なことである。
私たちは誰しもが真っ直ぐな道を歩めるわけではない。
その時は、救われた経緯を振り返ることによって、私たちがキリストを信じる前はどんな人間で、どんな人生を送っていたかを思い出し、初心に立ち返る必要もあるのだ。

"エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。
わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。"

ヨハネの黙示録 2章1~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

何のためにキリストを信じたのか?
どうして今も信じているのか?
これからも信じ続けたいと願っているのか?

あなたの信仰は熱くも冷たくもないと、主から宣言され、吐き出される者となる前に、自分自身の信仰を吟味したい。

"また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。"

ヨハネの黙示録 3章14~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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