私がキリストを信じて整形をしたくなくなった理由
今回のテーマとなるみことばはこれです。
私は中学生の時から8年ほどにわたって、「容姿が悪い(もちろん人の好みはあります)」という理由でいじめを受け、同級生からは忌避されてきました。
「私は顔のある部分が醜いから、こんなに人生が苦しいんだ、人々から蔑まれるんだ」と自分自身を呪って、整形のためにお金を貯めようとしていた時期がありました。
これは、私がキリストを信じる前の話です。
他にも、ピアスがオシャレで可愛いから、耳にピアス用の穴を開けるつもりでいました。
整形のためにバイトもしようと考えていました。
自分の顔が醜いと思うことで、希死念慮まで私は持つようになっていました。
他人との人生の比較をすることはしませんでしたが、過度なルッキズムにより、自分の価値が分からなくなっていたのです。
しかしそこから、私の人生のどんでん返しが始まります。
整形やピアスのことを実行しようと思った矢先に、私はイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのです。
信じてすぐは何も知らなかったし、聖書のことも全然読んでいなかったので、整形もピアスもやめようとは思っていませんでした。
ですが、信仰以前の話でそれらに対して踏みとどまる気持ちがありました。
理由は二つあります。
一つ目は、整形をしてしまったら、親からもらった顔に傷を付け、元の顔には戻れなくなること。
二つ目は、これはいじめを受けていた当時からのことですが、「あなたは可愛いよ」と言って優しくしてくれる女の子たちがいたからです。
これら二つの理由によって、私は顔にメスを入れ、耳に穴を開ける決断ができずに困惑した状態のまま、ただお金を貯めようとしていました。
そんな時に、牧師と話していて教えてもらった聖書の言葉が今回のテーマの言葉なのです。
ここで書かれている「神の宮」とは、私自身の体のことです。
私の体には、キリスト教の三位一体の神様である「聖霊」様が住んでおられて、私の体は聖なるものだということを言われました。
「神の宮」を壊すということは、自分の体を顧みないということなのです。
私はこのみことばを読んで、深く反省させられました。
私は親だけでなく、神様からもらったこの体に、「自分が辛いから」という理由で、傷を付けようとしていたんだと分かったからです。
私は聖書を土台とした信仰を持っていたので、神様の言葉を、私が持つ信仰を否定してまで、自分の気持ちを貫き通すことはできませんでした。
だから、私は整形とピアス穴を開けることを考えるのをやめました。
そのようなことはしたくなくなりました。
それからは、結婚のことを祈り始めました。
たとえ、自分が世界中の人から「ブス」と嘲笑されようと、たった一人の男性から「可愛い、美人」と言ってもらえたら、大切な女性として見てもらえたら、それでいいとまで思えるようになったからです。
私はお互いに愛し合えて寄り添える人が欲しくなったのです。
その後、整形のために貯めたお金は全て、教会に献金し、教会のために使いました。
そのことで後悔はしていません。
私が不正な富を「自分のため」ではなく、「教会のため」、果ては「神様のため」に使えたことを神様は喜んでくださったと私は思います。
これは、あくまで私の話であって、他の人の体験を否定することにはなりません。
個人の信仰と、個人の信念を否定するつもりは私には毛頭ありません。
ただ、私はこのみことばに心が救われたというお話です。
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