見出し画像

自分語りをしてみます

いつも同じような内容を書いている気がするので、今回は少し自分語りをしてみようと思います。

どこから語るかは大学生活くらいからですね。

色んな記事で書いていると思いますが、私は大学在学中に統合失調症になりました。

統合失調症になった時、ネットで様々な統合失調症に関する情報を集めました。
統合失調症は何で病気が悪化するのか、
精神障害に対して、就職に関するサポートをしている事業者はあるのか等そういったものです。

私は大学を休学したわけですが、留年なしで卒業しようと考えていたので、ふと、思い立って、単位の計算をした時、1ヶ月以上休学すると留年確定ということで、その時は既に半月は休んでいた私は顔が真っ青になりました。

急いで、学校に復帰し、何度も講義の前後に休憩室をお借りして、ベッドに伏すことが多かったのですが、卒業に必要な最低限の単位を全て取得し、無事に卒業出来ました。

卒業時に成績表を渡されたのですが、成績のトップ3に入っていた私が、真ん中よりも少し下くらいの成績まで落ちていて苦しかったのを覚えています。

私の病気の症状というものは、攻撃的な形で表に現れてしまったら、相手を潰すほど、引導を渡されて縁を切られるほどまでに恐ろしいものです。
私の身近な人は「閉鎖病棟に入院していないのが不思議なくらいだ」と言いました。

私が入院をしないように踏みとどまる理由はたった一つ、礼拝をしたいからです。
そんな理由でと思われる方もいるかもしれません。
ですが、私にとって礼拝は唯一ずっと縋り続けたものなのです。
礼拝がなければ生きていけないほどに苦しんでいるのです。

大学の話に戻ると、人が多いところが本当に疲れるので、食堂に入れなくなり、視線が気になって仕方ないので、マスクをずっと着けていました。
その結果、同級生からはとても煙たがられました。

大学での一番の楽しみは、お昼休みに楽しめるリズムゲームのアプリや、信号機と同じ仕組みのものを作る課題があったので、それだけでした。
リズムゲームは上位に入り、信号機の課題は私だけが同じ学年の中で解くことが出来ました。
なんとなく、そのようなものは得意でした。
他は頭を使わずに出来る暗記問題だったり、実習だったので、義務的にこなしていました。

私の症状というのは、本当にひどくて、病気も数えたら7つ以上あり、薬も何十種類と飲んでいます。
そして、20代半ばの時に、結婚をしても子供を産むことを考えるのをやめようと思いました。
それは、出産のことを考えた時に、ラケルがベニヤミンを産んだ時の箇所しか思い浮かばなかったこと。
私の病気が遺伝したり、子供が無事に産まれても私の症状で、子供が苦しむかもしれないことを考えたからでした。

そのように思っても子供のいる家庭を作りたいという思いが強く、たくさん祈って、たくさん泣いて、それならば別のことに力を入れようと思い至るまでに、何年もかかりました。

子供を持つということは私の夢でありましたし、当たり前に持てると考えていたから、それが瓦解した時に、私は信仰を持っていなければ、辛すぎてやっていけませんでした。

だから、私が語っている一つひとつの言葉は、決して机上の空論ではありません。
苦しみと涙と共に私は病気と付き合っています。
今でも一人で外出するのが難しいです。

それでも、私は「元気そうだ」「病気じゃないみたい」と誤解されることがほとんどです。
今も誤解をされている方はいるのではないでしょうか。

私はそんな健常者ではないです。
人に優しくされた経験がほとんどないので、優しい言葉をかけられたら泣いてしまいます。

こうして私が抱いていた夢が崩れても、体が辛くても、笑顔で生きていられるのは、主から言葉をいただいたからです。

その言葉は、「あなたの病気は、あなた自身の罪ではなく、神の栄光があなたを通して現れるためだ」(ヨハネの福音書9章1-3節)と、「だから、あなたは死ぬことを考えるのをやめて、自分が悪人だから病気になったと考えるのもやめて、家族を大切にして、同じように病気に苦しむ人の隣人になりなさい。あなたの苦しみは無駄にはならないから」というものです。

これは、洗礼を受けてすぐに伝道者から教えていただいた言葉でした。
そして、この御言葉の光は今も私の心の内で燦然と輝いています。

「病気や障害は神の栄光が現れるために与えられた恵みである」という言葉はヨハネの福音書9章と第二コリント書12章に、これと全く同じ文面ではありませんが書かれています。
この御言葉を否定する人は、不特定多数が見る場で否定するのではなく、祈りの中で、イエス様の前で一人立って、イエス様に直接「あなたの言っていることはおかしい」と語りかけてください。
御言葉を否定することは私の語っていることを批判しているのではなく、イエス様を否定しているのです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネの福音書1章14節)。

私自身は今は内側で何か出来ないかと模索しています。
最近、少し家族に対して聖書に触れてほしいと思い、活動しています。
それが続くかどうかは、神様が良しとされるか、私が信仰を持って行動するかで決まります。

私の存在そのものを、私を大切に思っている人たちが喜んでくれています。
だから、私は自分の存在で、私のことを気にかけてくださる方々の励ましとなって、病んで疲れていた私から、笑顔で幸せな私の姿を見せていきたい。
いつかきっと、私の苦しみが報われる日が来ると信じています。

たったそれだけの願いが私を動かしているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?