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【はじめまして】おじいの煎餅屋を継いだ27歳の“note”

 はじめまして。
 栄月製菓の代表、吉田紘規です。

 2024年1月31日。
 陽の光が暖かく、ベランダに並んだ洗濯物がよく乾きそうな今日、“note”をはじめます。


 まずはお店のことを少しだけ。
 栄月製菓は、祖父・清水利治が昭和40年(1965)山梨県大月市に創業しました。
 一番の人気商品は、ここ大月の名物となっている「厚焼木の実煎餅」。

 創業当時から変わらず、仕込みから焼き上げるまでのすべてを職人の手で行なっている、昔ながらの手焼き煎餅です。
 小麦粉が主原料の、いわゆる甘味煎餅である厚焼木の実煎餅は、「三枚重ね焼き」することでとても硬い、精製した山椒のエキスを配合しているため風味豊か、といった特徴があり、長年愛されてきました。

大月銘菓「厚焼木の実煎餅」


 僕が大学4年になった2018年当時、栄月製菓に後継ぎはおらず、祖父もまたお得意先に断りを入れて事業を縮小させようとしていました。

 僕がまだ22歳、祖父は82歳になる年のことです。


大月のじいじ 

 幼稚園から小学生の頃、僕は毎年夏とお正月の2回、大月へ遊びに行っていました。

 大月に行くとじいじとばあばに遊んでもらいます。
 夏は、近所のゲートボール場でキャッチボールをし、市内を流れる桂川で釣りをしました。

 いつも、じいじは朝早くから工場(こうば)で煎餅を焼いていました。
 そのころの僕は、いつもいつも、いつまでも煎餅を焼いているものだから、早く焼くのを終わらせて欲しいと思っていました。
 硬くて食べにくい煎餅は嫌いでした。それよりも遊んで欲しかったのです。

 お正月には、鏡餅と切り餅の配達の手伝いをしました。市内を3日程かけて周り、お駄賃とお年玉をもらうのが恒例でした。

「こんにちは、栄月です」と、言って玄関を開けます。
 はーい。奥から声が返ってきて姿が見えます。
 それは腰の曲がったおばあちゃんだったり、お寺の住職だったり、山奥の山荘のおかみさんや町の自動車修理工場の社長であったりもしました。

 僕は、段ボールに詰められたいっぱいの切り餅と鏡餅、それから栄月製菓の名前と住所、電話番号が書かれた来年のカレンダーを、玄関の土間や事務所まで持っていく担当。
「こんにちは栄月でーす」「ああ、栄月さん。今年もありがとねー」「栄月でーす。お餅の配達に来ましたー」「ご苦労様。来年もよろしく」
 そんなやりとりが毎年の恒例でした。

 中学生になると大月に行くのはお正月の時期だけになりました。
 小学3年生から始めた野球が忙しかったのです。
 高校生になるといよいよお正月の時期も行けなったと記憶しています。変わらず野球部に所属していたので、郵便局で年賀状を仕分けるアルバイトをしていました。
 高校3年の正月は大月で手伝いをしました。部活は引退し大学は指定校推薦をもらっていたのですでに決まっていたからです。
「来年の配達は運転してもらうか」と、そんなことを話していました。
 高校卒業と前後して僕は大月の自動車教習所に通いました。
 配達で通るし、祖父の運転で買い物にも出掛けていたので、わりに土地勘はありました。

 その頃くらいから「じいじ」は「おじい」に変わっていたかと思います。
 気恥ずかしいですから。

栄月のおじい

 大学1年時、僕は大月に下宿し電車で通っていました。
 進学先は武蔵野大学・文学部・日本文学文化学科。
 武蔵境にあるキャンパスに行くのに大月は便利です。朝7:00前後に中央特快と通勤快速の大月発があったので。山梨県内ではあまり見ない、中央線のオレンジの車両です。僕はいつも進行方向寄り、車両連結部横の3人掛けの席の乗降口から離れたところに座っていました。ドアが開いても寒くないし、暑くならないから。それに、途中、国分寺で快速に乗り換えるにしても人混みをかき分けて行きやすいから。

 朝、工場(こうば)からの金型がガチャガチャ鳴る音で目が覚めます。台所にはコンロに味噌汁の入った鍋があり、炊飯ジャーにはお米が炊けている。祖父母は何時からやっているのか、煎餅を焼いています。朝の連続テレビ小説が始める頃には終わるけれどそれまでは作業しています。僕は一人で朝食を済ませて、工場に「行ってきます」と声をかけて大学に行く、という生活をしていました。

 大学2年からは東伏見にアパートを借りました。さすがに行き帰りで3時間かかるのは大変なので。
引っ越してからは高校時代野球部で一緒にプレーしていた奴の誘いでくら寿司でアルバイトを始めました。小金井公園の脇なのでなかなか遠かったです。

 その次の年の正月、お餅の販売を終わらせました。
 みんなで相談して決めたことでしたが、祖父は寂しそうにしていました。
 煎餅の仕事も少しずつ減らしていましたが、それでもやる気はまったく衰えていませんでしたので。
 実際、「付き合いのあるところだから」と、お餅の注文を受けていたことがあったようでした。

 ただ、体は別です。すっかり耳が遠くなって補聴器をつけるようになりました。甲府で行われる「県民の日記念行事」への出展もしなくなりました。

「栄月製菓がなくなる」という手触りがありました。

 いまこうして振り返りながら書いていると、その頃くらいからだっとのかなと思えなくもありません。

 僕が継げばいい、と考えるようになったのは。

栄月の後継ぎ

 2018年。大学3年。3月1日の就職活動解禁と同時に、僕も御多分に洩れず、企業説明会に参加し、エントリーシートを書き、面接を受けました。
 甲府の印刷会社を受け、恵比寿のフリーマガジンの会社を受け、八重洲の雑誌編集者を受け、なんてことをしつつ、栄月製菓のことは常に頭にありました。

 栄月製菓に後継ぎはいない。
 後継ぎがいなければ遅かれ早かれ栄月製菓は終わる。
 でも、自分が行動すれば。

 本当ははじめから気持ちは決まっていました。
 でなければ、企業研究もせずに最終面接に臨むようなことはしないはずですから。

 まず母に気持ちを伝えました。栄月は母方の実家ですので。
 母は泣いていました。昭和初期の職人気質な祖父です、若かりし頃はそれはもう血気盛んであったというのは家族ご近所から聞いています、嬉しいとか悲しいとか、それだけではない何かがあってのことだったと思います。
 次に栄月の長男である伯父に相談し、末の叔父にも相談しました。

「栄月製菓を継ぐためにここで働かせてください」

 たしか、そんなようなことを祖父に伝えたんだと思います。
祖父と祖母、母と叔父が同席する中、茶の間で正座していた記憶があります。 

 祖父は僕の気持ちを受け入れてくれました。
 でも正直、そのとき祖父がどんな表情で、なんと答えたのか、覚えていないのです。僕は相当、緊張していたんだと思います。
 

 2020年の11月、祖父は逝去しました。その年の夏の暑さのせいか、若い時分に患った肺のせいか、体調を崩して入院していました。

 僕が祖父から煎餅の焼き方を教わったのは約1年半という短い期間でした。

 技術と道具とレシピが書き殴られたノート、そして「栄月」という名前を、僕は祖父から継ぎました。

これからの栄月


 2024年の今年で5年目。すっかり継いでからの方が長くなりました。
 あっという間ですね。

 5年目の今年、栄月製菓は大きな動きがあります。そのために“note”をはじめました。その「大きな動き」のほかにも仕事に趣味に、様々なこと書き留めていきたいと思っています。


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