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母の闘病 2017年

前回に引き続いて、母の闘病の記録を記していこうと思う。
闘病記録も今回で最後。何故なら母に2018年は来なかったから。
今は7月に入ったが、母の命日も今月なので、この時期は毎年辛い。
海外は歴史の年号の前に「BC」(Before Christ)をつけるが、
私の人生も2017年の前か後か・・という感覚で考えるように
なってしまった。

前回の2016年よりも、今回の内容を振り返る方が辛い内容になると思われる。前回同様、ハッピーな内容ではないので、お辛い方はどうぞ飛ばして頂ければ幸いである。今回は自分と向き合う為という意味もあり、日記のような、記録のような内容になってしまう事、お許しいただきたい。

2016年の7月に肺癌の手術を受けた後、その後突然歩けなくなり、原因不明のままだったが、整形外科の先生との出会いもあり、通常の歩行が出来るようになった年明け。このまま再発しないで少しでも長く生きて欲しいと
毎日祈っていた。

1月。定期診察の際に、やはり気になって主治医に頭の「影」について気になる事を相談し、再度CTを撮る事に。案の定、影は大きくなっていた。
小脳のあたりに出来ており、更にそばの血管に静脈瘤も出来ているとのこと。静脈瘤はすぐに処置は必要ないとの事だったが、腫瘍の方は「サイバーナイフ」をあてる事になった。
サイバーナイフは強い放射線治療の一種との事で、40分程度で終了した。
その後の母の体調に異変はなく、脱毛などもなかったので、これで一安心と思っていた。

5月。
このころ、母はインプラントを2本程度入れる治療をしていたらしい。
(一緒に住んでいない時期なので、後で知った)それが原因かわからないが、顎から首にかけてものすごく腫れてしまい、通っている歯医者からは痛み止めしか出してもらってないという。こんなに腫れているのに!!急いで私の通っている歯医者に連絡をし、診察をして頂くと、その場で口腔外科のある総合病院を紹介して下さった。その足で紹介頂いた病院に向かい、そのまま即入院となった。
この時の歯医者の先生方には今でも感謝している。
余談だが、うちの母は人がいいのか何なのか、とにかく人を見る目がなかったと思っている。母には申し訳ないが、仕事上でも病院選びでも、すぐに信じてしまうのか、通っていたヤブな(失礼)歯医者も勤めていた会社の上司からの勧めで一緒に通っていたらしいが、娘としては一言相談して欲しかったと思っている。(でも母は、私に怒られるからと黙っている事が多かった)

5月10日に口腔外科のある病院に入院し、抗生剤の点滴で日に日に腫れは引いていった。ところが、血液検査でおかしな数値が出ているという事で、今度は腎臓の専門医から連絡が入る。この先生も素晴らしい先生で、クレアチニンの数値が高いとの事で、通常の血液検査ではみない項目を追加検査して下さった。その結果、「ANCA関連血管炎」という診断だった。
腎不全一歩手前という状況らしく、治療で数値は少し良くなったものの、
肺癌の手術もしている事もあり、大学病院に転院して治療を継続する事になった。
ただ、入院できる日が1ヶ月程度先なので、それまでは「絶対安静」でいったん退院する事になった。ここでまた、私の家で一緒に生活をする日々となる。

母は2018年に大きな仕事を控えており、(我々はそれぞれイベント制作の仕事としている。)その視察で5月末に大阪に行きたいという。この時期は、元々通っていた診療所の先生が主治医となって入院までのフォローをしてくださっていたが、とにかく「絶対安静」で会社も休ませていたのだが、どうしても大阪に行くときかないので、頭に静脈瘤も抱えているし、飛行機はやめさせて新幹線にし(でも帰りは飛行機に乗って帰ってきた!!怒)、
主治医から緊急事態の為に大阪で倒れてもいいように紹介状を書いてもらい、それを持たせて出張に行った。会社の人も同行していたので、私は泣く泣く仙台で帰りを待っていた。
母は、大阪で有名な「551」の肉まんを買って嬉しそうに帰ってきた事を覚えている。とにかく無事で良かった・・とその時は思っていた。
結果、その出張が母の最後の現場となってしまった。

6月。
1日に入院の前に診察があり、母に同行。
「腎・高血圧内分泌科」(当時)という科で診察を受ける。先生は母の病歴を見て、開口一番「余命の話はされましたか?」と仰った。
「???」
私達は思ってもみなかった言葉を言われ、言葉が出なかった。
冷静に考えれば、肺癌手術後に抗がん剤も使えず、頭にはサイバーナイフをあて、現在は腎不全一歩手前という状況は良くなかったのかもしれない。でも、これまでの先生方はそんな話は一度もされなかった。だから、命がそんなに短いなんて、考えもしなかったのだ。

その日、入院の申し込みなどをして家に戻り、私は買い物に行くと嘘をついて(家では電話が出来ないから)、主治医に電話をして今日の話を伝えた。そんなに母の余命は少ないのかと。先生は「大学の先生もおかしな事をいうねぇ。気にしない方がいいよ」というような返答をしてくれたと記憶している。(気が動転してはっきりと覚えていない)今思えば、主治医もわかってはいたのだと思うが、私達親子に気を使って下さっていたのだろう。

電話を終えて家に戻ると、母は平然と仕事をしていた。
電卓を叩きながら「あんたびっくりしたんでしょ」と言われた。
母にはなんでもお見通しなのである。
この日から、声が漏れないように、お風呂場で何度泣いたかわからない。
多分、母は肺癌と言われた日から、命の覚悟を決めていたのかもしれない。

6月13日に入院。ここでも私は毎日病院に通った。病棟が高層階だった為、「ここホテルのスイートルームみたいよ」と冗談を言っていた。
治療は点滴位なので、点滴が終わると暇になる午後に私はいつも顔を出し、夕ご飯までいさせてもらい、家で入れた濃いめの緑茶を持参し、一緒にご飯を食べて帰ってきた。最初のうちは母も元気だったので、いつもエレベーターまで送ってくれた。

2週間程度の入院で退院するはずだった。
だから母の家も、入院の荷物を持ってきただけで、ベットも起きたそのままだったし、洗濯物もいくつか干したままだった。
しかし、母が家に戻る事はもうなかった。

もうすぐ退院かと思われた6月下旬、たまたま私もいて、先生方数名の回診の時。母は元気に「大丈夫でーす!」と元気さをアピ―ルした直後、突然白目を剥いて手足が痙攣しだした。口からは嘔吐をし、意識を失った。先生方は「急変です!」とナースコールをし、処置を始めて下さった。私は看護師に外に連れ出してもらったが、私の方が呼吸困難になってしまい、私にも看護師が1名付き添ってくれるという情けない事態となった。
母のあんな姿を見るのは初めてで、本当にショックだった。
その後、1時間くらいだっただろうか、部屋をナースセンターの前の病室に移動して、意識が戻った母と対面した。母は全く記憶がないようで、「何かあったの?」という感じだった。原因はその時点でわからなかったが、この1回で終わるのだろうと思っていたが、そこから母の容態は悪くなっていく。

最初の発作の後から、母は頭痛を訴えるようになり、最初は痛み止めの飲み薬を出してもらっていた。頭の痛みは日に日に悪くなっていった。吐き気もあり、飲んだ薬も吐いてしまっていて点滴の痛み止めも始めることになった。腎・血液内科の担当医は大学病院内の神経内科や考えられる科の先生と連携を取って調べて下さった。腰椎穿刺もして調べて下さり、はじめは脳圧が高いので、それが原因かもしれないと脳圧を下げる点滴などして下さったりしたが、母の痛みはひどくなるばかり。そしていよいよ緩和ケア科の先生方にも診て頂く事になる。

この時は、癌からくる痛みだとは思っていないので、とにかく痛みの原因を解明し、痛みを取り除いて欲しいと毎日先生方に頼み込んでいた。
このころから、日中はずっと付き添いをさせて頂き、1日中母と一緒にいた。仕事でどうしても外出しなければならない日は、身内や母もよく知るスタッフなどまで巻き込んで、母を一人にしないように付き添ってもらった。

意識を失い、てんかんのような症状の発作の回数が増えていった。
最初は5分程度の発作だったものが、10分、20分、30分と時間も長くなっていった。お部屋は、更に装備の充実したナースステーション真ん前に移動になり、部屋にカメラもつけて24時間ナースステーションでも様子を見て下さる事になった。

このころから、母が1日中痛みを訴えるので、点滴の痛み止めに加えて、数分置きに入れられる痛み止めも加えていくようになった。
もう見ていられないほどの痛みようであった。まだ原因がわかっていないので、モルヒネのような強い薬は入れられないとの事で、この数週間が母にとって最大に辛かった日々だと思う。

私達母娘は、スキンシップの少ない親子だったと思う。私が独立するまでは同じ会社にいた事もあり、母の頑張りは誰よりも理解していたし、言葉には出さないけど、私を誰よりも大切に思ってくれている事は小さい事から感じていた。そしてまた、母だけが私の仕事の辛さや思いを100%わかってくれていた人だと思う。
ある日、二人だけの病室で、あまりのつらそうな姿に背中をさすった。はじめ、母は照れ臭かったのか「いいわよさすらなくて。疲れるでしょ」と言っていた。しかし、それ以後は私がさすると「安心する」と言って身をゆだねてくれるようになった。私の手の平は腫れあがってしまったけど、細くなってしまった背中やむくんだ足を、ずっとさすっていた。こうして、血が通っている、生きている母をずっと感じていたかったのかもしれない。。

この母の痛みが一番つらかった期間、母の意識もまだ明確だった。
(医療麻薬は入れていない為)私が洗濯をしに数時間戻っていると、
朝方4時や5時に携帯が鳴った。「●●(私の名前)、助けて」という苦しそうな母からの電話だった。看護師さんがずっとさすってくれていたそうだが、どうしても私に電話をかけてくれと言ったそうだ。それから毎日、一時帰宅する度に母からの電話がきた。タクシーに乗っている時も「まだ着かないのか」と電話が入り、尋常ではない私と母のやり取りをした後、タクシーの運転手さんは「今日もいい天気ですね」と言ってくれた何毛ない会話に救われた事を思い出す。

このような母にとって辛い日々が続いた中、痛みの原因がわかった。
「癌性髄膜炎」という事だった。
癌の中でも10%程度との事らしいが、とてつもない痛みらしい。
その10%に母が入ってしまっていたのだ。
この時点で、担当医からは余命は数週間だと宣告された。
大学病院は、何人もの先生がついて下さるが、その中の一人の若い先生からは、急性期の為の大学病院なので、余命がわかった時点で「転院になると思う(=終末期病棟のある病院へ転院)」と言われた。
それはそうだな・・と思ったが、担当医にも聞いてみた。そうしたら、
「邦子さんは、最後までここで診ようと思います」と言って下さった。
本当にありがたかった。
看護師の皆さんも本当に良い方ばかりで、毎日「邦子さん!おはようございます!」と声をかけて下さっていた。「耳は聞こえてますから、話しかけて下さいね」と言ってくれた。

そして、呼吸も落ちてしまうが、痛みは和らぐ医療麻薬を入れる前に、緩和ケア病棟への移動を打診された。そこに行くには、本人の承諾が必要だという事で、担当医が痛がる母に強い痛み止めを入れる事と、緩和ケア病棟への意思を確認した。母は目は閉じたままだったが、「はい」としっかりうなずいていた。

強い痛み止めを入れるようになってからの母は、少しづつ痛みが取れて穏やかになっていったが、意識はまだあるころは、「せん妄」という症状が出て、「部屋に黒と茶色の人がいるから出て行ってもらって」とか、目は閉じているのに「天井の模様が変わっていく、私だけそう見えるの?」などと言っていた。酔っぱらっている感じで、実の姉(私の叔母)が会いに行くと、子供みたいに「ねーさん、会いたかった」と抱きついたりしていた。
ずっと目は開いていないのだが、見えているかのように目を閉じたまま喋っていた。

夜中、時々「家に帰りたい」と言う事があった。子供に返ったような口調だった。「なんでお家に帰れないの?●●(夫)の車で帰って、あんたの作ったカレーが食べたい」と言われた時は、泣いて声が震えてしまった。
話を逸らすために、翌年控えていた仕事の話をしたことがあった。その時の返事だけはしっかりした口調で、「あんたがやるの」と言った事が忘れられない。あの時だけは意識は覚醒していたのだろうか・・・。

母は痛みが緩和された代わりに意識がなくなって深い眠りに入るようになった。この頃は看護師長が畳の部屋を使わせてくれて、いつでも寝るのに使っていいよと言って頂いた。私も後悔したくなかったので、出来る限り一緒にいるようにした。夫も協力してくれて、一緒に看病をしてくれた事には心から感謝している。
しかし、母と2人で病室にいると、社会から遮断されてしまった気分になったのも事実。そして病室を出たくなって、1階のコンビ二へ日に何度か出てしまったのも事実。ほんの10分程度の外出だけど、普通に買い物をして、レジに並んで、立ち話をして・・そんな普通の日常がとても恋しくなった。母が間もなく旅立とうとしているのに、私はなんてひどい娘なんだ・・と自己嫌悪になった。あの時、暗闇に2人で取り残されてしまったような時間の中で、母に行かないで欲しいのに湧き上がってしまった裏腹な思い。
私のような感情を持った方はいらっしゃるのだろうか・・・。

そこからの数日は、ほぼ終日深い眠りについている日々だった。大きな声で名前を呼ぶと時折り意識が戻る程度で、目は開かなかった。この数日の間に、会わせたい身内などに来てもらい、それぞれお別れをしてもらった。
母方の従兄弟は、私達夫婦がコンビニのご飯しか食べてないだろうと、吉野家の温かい牛丼を差し入れてくれたりして、人の優しさが心に沁みた。

7月21日。いよいよ緩和病棟のお部屋が空いて、午前10時に病棟へ移動をした。ベッドの移動が終わった後、看護師からこれからどうなるのか、最期の瞬間までの説明を受けた。そしてその数時間後、看護師からの説明の通り、顎で呼吸をするようになってからしばらくして、母は息を引き取った。
あの苦しい痛みの日々からは解放され、眉間にシワを寄せることもなく、とても穏やかな顔だった。最後の一呼吸を終えた安らかな顔は一生忘れない。

痛みがひどくなってきた時から担当医と連携して痛み止めなどの対応をして下さった緩和ケアの先生方が、母のベットの周りを囲んで、「夏の思い出」を演奏して下さった。初めての経験でびっくりしたが、緩和ケア科の先生曰く「病室で音楽をかけられていたので、邦子さんは音楽が好きなんだと思って。ちょうど先日七夕コンサートを開いたので、その時の曲を邦子さんにお聞かせします」との事だった。その後、沐浴を手伝わせてくださるとの事で、最期のお風呂を私も手伝わせて頂いた。
エンゼルケアをして頂いた後、葬儀社の車までの移動の際、母の亡骸をストレッチャーに乗せるのにこれまでお世話になった腎・血液内分泌科の看護師の皆さんの手で母を移動させてくれ、エレベーターまで見送って頂いた。
母は、本当に最後まで幸せな人生だったと思う。
大学病院の先生方、看護師の皆さん、そして部屋に来る度母に声をかけて下さったお掃除の方などすべての皆様に心から感謝している。
大学病院は、ドラマであるような敷居の高い病院かと思っていたが、そこには患者や患者の家族を思いやってくれる優しさがあり、一心に医療に向き合う方々が集う尊い場所だった。

肺癌が原発で癌性髄膜炎を発症したとの事だったが、
その前の原因不明の足の痛み、血管炎、てんかんのような発作、持病の肺線維症・・・これらが関連しているのか、ただめまぐるしく最後の1年に凝縮しただけなのか、今となっては調べる術はない。
そして「後悔したくない」と思って全力でフォローしてきたつもりだけど、娘としてはやっぱり後悔も残る。
2週間程度の入院で戻ってくるはずが、病院を出る時は葬儀社の車で出るなんて・・・肺癌手術から1年であっという間に母はいなくなってしまった。

母・邦子が他界して今年で丸7年。
ようやく書き出す事が出来た。
これで一歩前進出来たと思いたい。
母が見せてくれたもの、それを私は社会に少しでも貢献できる形で残したいと思っている。

・・・・・
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。
そして今、どのような状況にいらっしゃる方も、明日も心穏やかに過ごせますように。
私も、がんばります。




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